将棋世界1998年2月号、野口健二さんのJT将棋日本シリーズ’97決勝戦〔森内俊之八段-谷川浩司竜王名人〕観戦記「第一人者の証し」より。
森内俊之八段との決勝前夜、レセプションの席上で抱負を聞かれた谷川浩司竜王・名人は、
「日本シリーズの決勝は独特の雰囲気があって、負けてもそれなりの充実感を持って帰ることができるが、やはり悔しさは残る。それと、一年くらいたつと、準優勝者の名前は忘れられてしまうので、優勝したい」
と答えた。
準優勝者の名前は忘れられてしまう。以前、谷川の自戦記にも現れたこの言葉は、決勝の舞台を幾度も踏んだ者ならではの説得力を持っているが、もちろん例外はある。
その一つが、同じ二人が戦った全日本プロの決勝だ。当時プロ2年目で18歳の森内四段が、谷川名人・棋王を破って優勝。ニュースター誕生と騒がれたのは、まだ記憶に新しい。
冒頭の谷川の発言は、第一人者として負けるわけにはいかない、という自負と責任感の現れと見たが、いかがだろう。
(中略)
決勝当日は好天に恵まれ、11時頃福岡市民会館に着くと、既に開場を待つファンの列が伸びていた。一番乗りは9時前で、広島・仙台大会も見に行ったという熱心な方もいたそうだ。
(中略)
そして、いよいよ決勝戦である。
客席の左右の入り口からJTレディーに導かれて、谷川浩司’96JT杯覇者と森内俊之八段が登場する。
スポットライトを浴び、ファンの拍手に迎えられながらという華やかな演出は、谷川が「棋士になってよかったなと感じる幸せなひととき」というのも納得できる。「ただ、1時間半後には、どうなっているか分かりませんが」と付け加えるところが、いかにも谷川らしい。
一方、対局前に谷川さんに一言、と予想外のコメントを求められた森内は、「昨年も優勝されていますので、今年はぜひ私にゆずってください」と素直に?答えて、谷川の苦笑を誘っていた。
(以下略)
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この決勝戦は谷川浩司竜王名人(当時)の向かい飛車、森内俊之八段(当時)の居飛車穴熊となり、谷川竜王名人が勝っている。
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「一年くらいたつと、準優勝者の名前は忘れられてしまう」は、言われてみるとたしかにそうかもしれないと気付かされる言葉。
タイトル戦で言えば、挑戦者決定戦で敗れた場合が、トーナメント戦での準優勝者と同じ位置付けになるかもしれない。
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この対局の大盤解説は森下卓八段(当時)と中井広恵女流五段(当時)。
将棋世界の同じ号の野口健二さんの編集後記より。
日本シリーズで、谷川竜王・名人に将棋以外の事は喋らないように釘をさされた森内・中井コンビですが…。
「佐藤康光さんは、大事な対局に負けると家で本当に泣くそうですよ」 「女流では対戦相手の前で泣く人も。中井に負けて悔しいということかしら(笑)」。内緒話はやっぱり楽しい!?
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谷川竜王・名人から自身のエピソードに関しての緘口令が出されたため、佐藤康光八段(当時)に飛び火した形。佐藤康光八段にとっては災難だったと言えるだろう。