将棋世界2000年4月号、真部一男八段(当時)の「将棋論考」より。
羽生四冠がまた勝った。王将戦4-0である。このことを少し考えてみよう。
これほどの大差をつけられるほど、佐藤康光名人は弱いのか、否、そんな問題ではない。羽生が断然強いわけでもない。
では何故これほどスコアに差が現れてしまうのか。ここに二人の本質の違いがある。一言で云えば、羽生は知の人であり佐藤は理の人である。佐藤の系譜は、古くは金子金五郎、そしてその弟子である山田道美、私の同世代では青野照市につながる。共通項は理、つまり理論的に将棋を解明しようとする態度、生き方、これは人生観にもつながるものがあるのかもしれない。対する羽生は、おそらくは彼の恐るべき直観によって、将棋という一見単純なゲームではあるが、人智では解明できぬものと感じているのではないか。ここに羽生のこわさ、強さが見える。彼はいう、終盤はパターン化できる。
また、将棋は日々進化している。
羽生ほどの者にこう云われれば、聞いた人間はどう感ずるか、ほとんど強迫観念に近いものを抱いてしまうであろう。
ただし、羽生はこういった表現を意識的にしているのではない。そこが羽生のすごいところである。こういったことを無意識にできたのは、大山十五世のみである。この能力を理と知に分けて羽生を知の人という。理とは現代科学的思考方法であり、その根底には理論で答えがでるとする考え方、今話題のヒトゲノム計画がそれであり、アインシュタインの統一場理論の考え方もそうである。
つまり、理論で追っていけばあらゆるものに正しい答えがあるとする考え方である。これに対し数学者の岡潔博士は、欧米的科学、あるいは科学そのものが、模型の宇宙論を論ずるには効果があるにせよ、現実を到底把握しきれないということをいっておられた。ニュートンだったかアインシュタインだったか、自分は海辺の砂浜でひと握りの砂をつかんでいるに過ぎないと云っていた。まだ道元禅師は、心の中に自然のあることなお大海に一鷗の浮かぶるがごとしと云っている。
長々と色々のことを云っているのは、佐藤、森下、郷田が何故羽生に勝てないかを云いたいがためである。
勝負というよりもむしろ対局と云った方が分かりやすいかもしれない。
対局といったような、持ち時間やその他の条件を規制されている時、それを勝ち抜くのは理ではなく知、すなわち総合力、云い方を代えれば現実処理能力なのである。終盤の競り合いで相手を誤らせる羽生の特質、これは大山十五世も備えていた。このことを解明するのが、打倒羽生には必要なのではないだろうか。
最善手のみを追求する姿勢、それはそれで尊いことなのだが…。
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ここで「理」の代表格として名前が出ている佐藤康光九段、森下卓八段、郷田真隆八段(段位は当時)も、2000年代から「知」へシフトチェンジしていると思う。
早い段階で「理」から「知」へ転換をはかった代表格は森内俊之九段。
→森内俊之八段(当時)「人間同士の戦いですから絶対的なものはないんです。だからそこは、ごまかしながらやっていくしかないです」
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今後、コンピュータソフトを取り入れた研究(理の追求)を行っていく棋士が増えていくと考えられる。
そのような時代だからこそ、抜きん出るためには「知」がもっと求められるようになっていくのではないだろうか。