将棋世界1998年10月号、谷川浩司竜王(当時)の村山聖九段追悼文「もう二度と……」より。
棋士は誰でも、「名人」に対して特別な思いを抱いているが、村山君ほど名人になりたいという気持ちが強かった棋士は居なかったのではないか、と今改めて思う。
師匠である森六段にも、「名人になったらやめる」と話していたとか。
腎臓の持病を抱えていた彼は、自分に与えられた時間が他人より少ない事を、敏感に感じていたのだろう。
昨年の6月に手術を受けた村山君は、1ヵ月後、順位戦に復帰する。抽選をしてからではもう休場はできない。万全の体調には程遠い形だったが、村山君にとっては、ここで休むと名人から遠ざかってしまう、の思いだけだったに違いない。
7月14日、その丸山七段との一局は壮絶な戦いだった。読者の皆さんも、この一局だけは絶対に盤に並べて、彼の名人に賭ける執念を感じ取って頂きたい。
そしてそれが、村山君に対する一番の供養になると思うからである。
私は村山君と18局戦っていて、一番多いはずである。相性は割合良かったのだが、順位戦だけは2局しっかりと負かされた。
A図は、平成7年11月7日、A級順位戦。ここから▲9一角△同玉▲8三香成の順で寄せられた。
この勝利で村山八段は3勝2敗と白星を先行させ、挑戦争いに参加している。
また、村山君は同世代の羽生さんに対しても強烈なライバル意識を持っていた。その証拠に、対羽生戦は6勝7敗の成績を残している。
彼のタイトル戦登場は、第42期王将戦で私に挑戦した時だが、羽生さんの持つタイトルに一番近かったのは、2年前、第46期王将戦だった。
村山八段が3連勝、私が3勝1敗で迎えたリーグの行方を決める大一番は、平成8年11月22日に行われた。
B図はその終盤戦。△5八飛成で一見即詰みのようだが、▲6八角が用意の逆王手。以下△4六歩▲6九銀△4七竜▲5七角打と進み、形勢不明の終盤戦が続いた。
この直後に私が悪手を指し、結局負けてしまうのだが、179手、双方1分将棋で指し続けたこの一局は、対村山戦の中でも印象に残っている。
これで村山八段は4連勝。1敗者が居なくなった上に、この時点で村山八段自身も8連勝中と絶好調だったので、挑戦者は間違いなし、と誰もが思った。私もあれだけの将棋を指して負けたのなら、とサバサバした心境だった。
だが、この対局を境にして、村山君の将棋に粘りがなくなるのである。あるいはこの頃、体の変調に気付いていたのかもしれない。
リーグ終盤に崩れて、結局プレーオフに。その一局も精彩がなく、あきらめていた私に挑戦権が転がり込んできた。
ただ、その私も七番勝負では羽生さんに4連敗。口には出さなかったけれど、自分の夢を奪っておいて、ストレート負けで帰ってくるなんて、と内心怒っていたはずである。今となっては、その事を謝る事もできなくなったが―。
村山将棋と言えば、終盤力が有名だったが、私が対局した感じでは、卓越した序盤のセンスに特徴があったように思う。
毎日のように将棋会館に顔を出し、昼間は棋譜を並べ、夜になれば今指されている将棋を研究する。
大阪に住んでいた時はもちろん、東京に移った2年間も、将棋会館に一番近い所に住んでいた。正に、将棋漬けの人生だった。
最後に会ったのは4月16日。大阪の芝苑で、全日本プロ第2局、羽生-森内戦が行われた時だった。
「休場中の身なんだから、早く広島に帰って静養したら―」と言おうと思ったが、やめた。
彼も、大阪に残って将棋を指し続けたかったはずである。
来年の4月には、また元気な姿を見せてくれると信じていたのだが―。
あの、人なつこい笑顔を見る事はもうできない。
そして、胃が痛くなるような終盤のねじり合いを彼と戦う事もできないのである。
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最後の、「そして、胃が痛くなるような終盤のねじり合いを彼と戦う事もできないのである」でグッと来る。
この時、谷川竜王は、村山聖九段が少年時代「谷川を負かすのには今いくしかない、今しかないんじゃ」と言っていたことをまだ知らない。
(明日につづく)