昭和の雰囲気濃厚な対局室

将棋世界1979年9月号、日刊ゲンダイの大石征史さんの「第2回オールスター戦終わる」より。

7月20日

 雨は対局開始の午前10時を過ぎると間もなく降りはじめた。雨脚は繁く、対局室の硝子戸越しにいつも見えている新宿の高層ビルが、今朝は雨中に姿を消す。今年の関東地方はカラ梅雨模様で、盛夏の水不足が気にかかる。こんな雨が水源地に降ってくれれば、と思う。

 棋士に訊いたことはないが、たまには雨に閉じ込められての対局も、気分が落ち着いて悪くないのではあるまいか。

 特別対局室はオールスター勝ち抜き戦の花村九段と田丸六段の顔合わせ。

 田丸は二上、大内の2人を抜いて3人目への挑戦である。上位チームの最終ランナー花村を破れば、下位チームは7人を残してチーム優勝を遂げる。本局で棋戦が終了するか、もっと差を縮めるかは花村九段次第である。

「君はまだ30前かね」と花村が田丸に話しかける。「そうです」「だいぶ白いようだが」と相手の髪を見上げる。口数の少ない温厚な田丸、なぜか若白髪だが、これはむしろ端正な風貌によく似合う。「あんたも白くなったね」と今度はほこ先が観戦記者のN氏に向かう。あわてたN氏「先生、お互いに頭の話はよしましょうよ」で、花村九段も光頭をツルリとなでて苦笑い。

 この光頭、コンクールに出場すれば入賞疑いなしの逸品である。妖刀使いなどと異名をたてまつられているが、どこか飄々とした気さくな人柄だ。

 隣室をのぞくとここでは大内-森雞、西村-佐藤義の王将戦、加藤王将-芹沢の棋王戦、田中寅-潮の新人王戦が4局。まだ早い午前のことで、指し手はほとんど進んでいない。芹沢と西村を中心に雑談がはずむ。この二人の周辺はいつも賑やかだ。芹沢がジョークをとばし西村が調子を合わせる。笑い声が絶えない。

 ひとり加藤が粛然と盤面をにらんでいるかに見えたが、突如けたたましい声で笑い出す。芹沢の冗談がつい耳に入り、こらえきれずに一拍おくれて笑った謹厳な加藤が、こちらにはおもしろい。

 某夜、芹沢八段と新宿を飲み歩いたのが思い出される。酒場でマイクを手に「古城」を唄った芹沢。ひどく淋しい歌だ。その晩も雨だった。「将棋は苦し、酒は楽し、人生は哀し」と言ったのは確かこの人である。いつも陽気に振る舞っていても、どこかで孤独が顔をのぞかせる。この人の賑やかなジョークは周囲への単なるサービス精神ばかりでなく、将棋に明け勝負にくれる棋士の日常から、自身をまぎれこませる場所を求めているのではないか。―ふとそんなことを考える。

 昼食後再開。花村-田丸戦が中盤の難所にさしかかる。時おり棋士がのぞきにくる以外、室内はひどく静かだ。

 沛然と降り続く雨を眺めながら、大詰めにきた今期オールスター戦のことどもを振り返る。一つ一つの対局に深い印象と愛着が残っているのだ。

 関西での板谷-桐谷戦は300手を超える長尺の将棋だった。朝の10時から夕食抜きでぶっ通し、感想戦が終わったのは午前1時。空腹と疲労でこちらもグッタリ。

 同じく関西で桐山-小林戦。昼食はどちらも仲良く愛妻弁当。出張記者にはこれがこたえる。桐山に最近愛児誕生ときき、愛妻弁当がどうなるのか関係もないのになぜか気にかかる。桐山はこの弁当で6人を抜いた。

 加藤-安恵戦。必勝の将棋を大ポカで安恵が落とす。盤側にいて勝負の明暗を見るつらい一刻だ。賞金の一封をこのときほど出しにくかったことはない。

 中原-淡路戦。大鷲が羽ばたくように扇子を開閉し、名人を威嚇するように鋭い目でにらみつける淡路。

 名人に対しては特別の闘志を抱くときいていたが、実見ではうわさ以上。名人敗れる。

 続く二上-淡路戦。負けた淡路、感想戦が3時間のすさまじい闘志。これが勝負への執念というものか。

 大内-田丸戦。楽勝の将棋を攻め急いで大内の逆転負け。前回9人抜きの快挙をやっただけに、担当記者としてもショック。勝負は水もの、を思い知らされた。

 こんな感慨にふけっているうちに目前の局面は進行して、どうやら花村の敗色が濃厚となる。終盤をかぎつけて棋士の出入りがはげしい。

 3時、ついに花村が投了。これで第2期オールスター戦は全対局が終了した。

 夕食後、対局室をひとめぐり。大内、芹沢、西村らが再開前の雑談中。盤面をのぞき歩いていると「とにかく、生きているってことは哀しいことだよ」と話している大内の声。

 この言葉、勝負の哀歓をなめつくした人の実感であろう。耳の底にこびりつく。

 第3期の下相談に丸田副会長と近所の鮨屋へ。

 ノレンをくぐるとワッと歓声。カウンターの前に新聞社がいつも世話になっている連盟事務局の二人のN君、F君、S嬢が。

 棋戦をかげで支えてくれる裏方の若い人たちだ。徳利が林立してすでに出来上がった気配。一人のN君「見合いをしたんです。可愛い子なんで結婚することにしました」と率直な告白。「それはお目出度う」と盃をあげながら、ちょっぴり淋しい気分の中年組。やがて帰りかけるヤングに「もっと盛大に飲もうよ」とノドまで出かかる。

 なぜか妙に人恋しい晩だ。感傷的なのは雨のせいだろうか。

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昭和の対局室の雰囲気が濃厚に伝わってくる。

ジュディ・オング「魅せられて」、矢沢永吉「時間よ止まれ」、などが流行っていた頃。

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オールスター勝ち抜き戦は、1978年から2003年まで開催されていた日刊ゲンダイ主催の棋戦。

賞金が現金で手渡されるのが特色の一つだった。

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一拍遅れて爆笑しはじめた加藤一二三九段が面白い。

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1979年7月20日は金曜日。

私はこの週の月曜から土曜まで、大学のゼミの合宿で西伊豆の民宿のような所に泊まっていた。先生が1人、男が9人、女性4人の合計14人の旅行。

昼は複素関数論の輪講、夜は宴会、うち2日間だけ、午後は海水浴という日程だった。

泳げない上に、海には一度も入ったことがない私が、生まれて初めて海水に触れた時だった。

それっきり海には入っていないが、今になってみると良い思い出になっている。

ただ、東京に戻ってからの日焼けが凄かったので、海水は水の仲間ではなく全くの化学薬品のようなものだと、今でも思っている。