将棋世界1979年1月号、大山康晴十五世名人の「棋譜で綴る半生記 充実のとき」より。
昭和40年の1月ごろは、王将、棋聖の両タイトル戦を戦っていた。棋聖戦は勝てば永世棋聖になれる。王将戦は通算10期の記録をつくれる。それに五冠王は守りたいというわけで、三つの欲望にからまれた私は、勝負の鬼になっていた。まだ若かったので、欲望が張り合いとなり、充実した日々でもあった。
若さはいいものだと、いまさらながら、つくづく思う。
幸いにも棋聖戦には勝って、永世棋聖になったが、王将戦はこの一戦に勝たないと、10期の記録はおあずけになる。欲望の実現に向かって、一段と闘志を駆り立てた思い出がある。
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将棋世界1979年2月号、大山康晴十五世名人の「棋譜で綴る半生記 思い出が悲しみに」より。
昭和40年代に入って、二上八段(当時)を先頭に加藤一二三八段、故山田道美八段など、一群の新人が、大山退治を宣言する様子で、私に迫ってきた。
天才と称される連中ばかりだから、私の五冠王も、いつまでつづけられるやら、と内心では覚悟を決めていた。中でも山田さんは、”おれが大山名人をやぶる”と豪語していることを伝え聞くほどであった。
人柄は立派。研究熱心。それに天分豊かであるから、よほどの自信を持っていたにちがいない。しかし、私も負けず嫌い。とくに新人に対しては、一度はたたいておかないと調子にのるから、というわけで、一段と闘志を燃やしてぶつかることにしていた。
それはとにかく、山田さんが健在でいたら、プロ将棋界の様相もよりよいものになっていたのではないかと考えられ、残念でならない。
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将棋世界1979年4月号、大山康晴十五世名人の「棋譜で綴る半生記 思い出が悲しみに」より。
がんばって五冠王を守った。こんどもどうやら五冠王の地位を保つことができた。運にも恵まれて、まだ五冠王でいられる。こんな状態がつづいてくると、自信がめばえる。が自信はちょっと変われば、うぬぼれになる。
うぬぼれは安易な着想や、指し手を生みやすい。精進を忘れさせるからだ。この十段戦も三対一とリードしたとき、そのトリコになって、三対三と、二上さんに追い上げられてしまった。常に精進努力、それに前進を心がけていなければ、現在の地位は保てない。
私はやっとその気持ちを取り戻して、第七戦に立ち向かった思い出がある。棋譜を振り返りながら、プロ棋界の繁栄をつないでいくのも同じ気持ちであらねばならん、と会長の自分に云い聞かせている。
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将棋世界1979年7月号、大山康晴十五世名人の「棋譜で綴る半生記 経験は貴い、といまも思う」より。
昭和38年の3月に、私は王将位を失って、1年間四冠王でいたことがある。かなりのショックだったが、持ち前の負けず嫌いが出て、こうなったら、どんな棋戦でも勝ちまくってやる、と張り切った思い出がある。
なにごとでも、絶頂期にはそうした気魄が自然に湧き出てくるように思えてならない。
それをとくに感じたのは、広津八段の一戦である。広津さんも一番充実していたころで、ある棋戦に優勝し、私と記念対局で顔を合わせた。ふつうなら、それほど勝負に執念を燃やす一戦でもないはずなのに、負けてなるものか、と闘志をかきたてた記憶がある。
広津さんは器用な棋士で、特異な棋風が感じ取れた。また行政手腕もすぐれていて、現在も日本将棋連盟の専務理事をつとめている。私は会長。しかもおないどし。いまなら、会長、専務の一戦ですね、と笑いあえるところだ。
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将棋世界1979年12月号、大山康晴十五世名人の「棋譜で綴る半生記 五冠王を失う」より。
形あるものは必ずくずれる。力で取った地位は、いつかは失う。天地自然の理である。
とは知りながらも、できるだけその地位にとどまりたいのも、自然の感情といえる。
”なんとも思いませんね”などの言葉もたまには聞くが、本音として伝わってはこない。
私も血のにじむ思いをしてかち取った五冠王の地位を一時も長く保持するためにがんばった。
いま考えると、人生をそれにかけていた。しかし、天地自然の理には勝てず、五冠王を失うときが来た。負けることはあってもすぐ取り返せる、の自信は持っていたけれど、現在まで二度と五冠のタイトルは戻ってこなかった。
最初に失ったのは棋聖位だが、奪ったのは故山田九段である。山田さんは、まれに見る立派な棋士で、生きていたら、プロ棋界はいっそうの繁栄を見ていたかも知れない。
私としては忘れ得ぬ一局なので、なき山田さんをしのびながら、思い出をたどってみる。
また半生記の区切りでもあるので、半生記はこの号で打ち切らせていただくつもりだ。
(中略)
四間飛車が気に入って振り飛車党になったが、その後いろいろな形の振り飛車が指されるようになった。
となるとすこしは経験しておかないと振り飛車党としては、あまり大きな顔ができなくなる。
その意味で、大きな一番ではあるが、当時かなりはやっていたツノ銀中飛車を用いることにした。
(中略)
全盛期はふりかえって、初めてわかる。
棋聖位を失っても、すぐ取り返せると考えていたが、いまではすべてのタイトルを失っている。
五冠王にある時が私の全盛時代といえるようだ。
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将棋の勝ち負けについては達観して淡々としているように見えた大山康晴十五世名人だが、五冠王に対してこのような熱い思いを持っていたと初めて知る。
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Wikipediaでの記述によると、大山十五世名人の五冠王(全冠制覇)の時期は次の通り。
1962年棋聖戦(後期)から1962年王将戦まで約60日
1963年王将戦から1966年棋聖戦(前期)まで約870日
1966年棋聖戦(後期)から1967年棋聖戦(前期)まで195日
1970年棋聖戦(前期)から1970年十段戦まで147日
「棋聖位を失っても、すぐ取り返せると考えていたが、いまではすべてのタイトルを失っている」
は、
「棋聖位を失っても、すぐ取り返せると考えていたしすぐに取り返すことができて五冠王に復帰できたが、いまではすべてのタイトルを失っている」
が正確な言い方だろう。
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大山十五世名人、この時56歳。
この後、1980年に王将位を奪還、1981年と1982年に2年連続で防衛を果たしている。