田丸昇新四段(当時)「山田先生は今天国で何をなさっているのだろう」

将棋世界1972年5月号、田丸昇四段(当時)の随筆「独り言」より。

”この七年間何をやってきたのだろうか”

 酒井君との運命の決戦を終えた夕方、喫茶店で一人コーヒーをすすっていると思わず口に出た。興奮と虚脱が入り混じってそれ以上は言葉にならなかった。ただ無意識のうちに僕の脳裡に過去のことが走馬灯のようにかけめぐるだけであった。

”やっぱり親しい友達と今夜は祝杯をあげるべきだったかな”

 室内に流れる音楽とタバコのにおいで現実にもどされると、こんなこともボソッと口に出したようである。

 僕が将棋を覚えたのは小学校六年。ちょうど村田英雄の「王将」が大ヒットしていた。中学の時は近所の小さなクラブに出入りして夢中になって指していた。当時学級委員長だったが授業が終わると一目散に学校をとびだすのは私だけだったかもしれない。やがて千駄ヶ谷の将棋道場にも顔を出し、そこで月刊誌をみて多少棋界のことも知った。その頃からすでに棋士になる夢を描いていたようだ。

 それから数ヵ月本当に夢が現実になった。佐瀬七段道場訪問-入門許可-奨励会入会試験-入会パス。あっという間の出来事であった。それは師匠に恵まれたからで、自分は幸運であったとつくづく感謝している。さらに恵まれたことは、中学卒業後内弟子生活を三年間続けたこと。非力な将棋であったが何かと三段に昇ったのは内弟子修行のおかげと信じている。そしてその間、物心両面にわたって私を指導し面倒をみてくれた佐瀬先生ご夫妻や、兄弟子の方々へのご恩と感謝は一生忘れられない。本当にありがとうございました。

 ライバルを抜いて三段には十八歳で一番乗りしたが、技術的には仲間うちであまり評価されていなかったようだ。僕の将棋は攻めは鋭いが受けがもろく大局観も甘いため”奨励会Aでは通用しないさ”と言う人もいたそうだ。確かにそうであった。しかし熱意だけは負けないつもりだった。

 それだけに故山田九段の対局の時の勇姿にはよく励まされた。山田先生は今天国で何をなさっているのだろう。「私の内なる師」とひそかに想い続けた気持が天まで伝わってくれれば嬉しい。

 奨励会Aの成績は割によかった。三期目はツキもあって優勝したが、精神的、技術的甘さで東西決戦で坪内君に敗れた。それから将棋一本のマジメ人間?が、長髪の変人に変容していったようだ。その頃私はある大学の文科系サークルに出入りし始め、しきりに文学や語学などの一般教養をかじっていた。やりだすと不思議におもしろい。とうとう一年ほど”没趣味的生活”が続き、哲学者というあだ名さえついた。将棋の方はその反動でサッパリダメ。情熱でもっているのに努力を欠いて勝てるはずがない。それに気がついたのは遅かったが、決して自分にとってマイナスとは思っていない。大局観をあやまっただけである。

 去年の秋から今度の決戦まで、自分としてはかなり勉強した。将棋の内容はそれほどよくなかったが、終始ツキが私の方にきた。そして東西決戦においても幸運の女神は私を忘れなかった。今になって思うと、ツキを私の方に招き寄せた主は”ド根性精神”でも”リーベの存在”でもなく、平凡な積み重ねの日常生活にあったような気がする。

 山田先生が生前”たどり来て今だ山麓”という言葉を好んで使った。山田先生にして然りである。僕ももう一度勉強し直さなければならない。それが昇段の実感である。

 やっと気分がおちついた。さめたコーヒーの味もわるくはない。でもやっぱり酒の方がいい。家に帰ってウイスキーでも飲もう。

 外に出ると二月の夜風がそっと僕の頬をかすめさった。上気した顔にはむしろ気持よいくらいである。もしかすると”春”がすぐそこに近づいているのかもしれない。

tamaru

1972年2月、東西決戦に勝って四段昇段を決めた時の田丸新四段。(将棋世界1972年4月号掲載)

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田丸昇九段が、昨日の竜王戦6組昇級者決定戦で門倉啓太四段に敗れ、引退が正式に決まった。

引退が予定されていながら、これほど勝ち進んだケース(来期は参加できないが、あと2勝で5組昇級のポジション)は、形態は異なるが有吉道夫九段以来かもしれない。

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田丸九段が四段に昇段したのは1972年2月22日。この頃は東西のリーグ戦に分けられ、東西の優勝者同士が対戦して、勝者が四段に昇段できるという「東西決戦」の時代(昇段は年に二人)。

激烈な戦いの後、一人で喫茶店へ行くというのも当時の田丸四段らしい流れだったのかもしれない。

まさしく1970年代、2月22日は、あさま山荘事件(2月19日から2月28日)の真っ最中の時。2月3日から2月13日までは札幌冬季オリンピックが開催されていた。

田丸新四段が行った喫茶店に流れていた音楽は、時代的にサイモン&ガーファンクルやカーペンターズであった可能性が高いと思う。

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田丸九段には1996年に当時は新宿・十二社にあった「京」で女性二人とともにご馳走していただいたことがある。

また、終盤が滅茶苦茶弱かった私が、少しでも終盤に強くなれたのは田丸九段の著書のおかげだ。

終盤嫌いな私でも読みやすかった本で、とても勉強になった。

田丸昇九段は現役を引退するが、文筆活動や解説など、これから以上に活躍の場を増やしてほしいと思う。

田丸が45年間にわたる現役棋士を引退、その後の電子機器不正使用問題(田丸昇公式ブログ と金 横歩き)