真部一男八段(当時)「読者は名棋士と聞いて誰を想像しますか」

将棋世界2004年6月号、真部一男八段(当時)の「将棋論考」より。

 読者は名棋士と聞いて誰を想像しますか、20代や30そこそこではピンとこない、やはりある程度の年輪が必要でしょう。

 勝負にギラギラしたタイプではなく、名利に活淡で人柄は飄々としている。

 将棋に対しては筋金入りの軸が一本通っていて妥協のない職人気質。

 そして、その人柄にはそこはかとないおかしみが感じられるような人。

 私のイメージはこんなところであり、それにぴったり合致した人物が塚田正夫名誉十段なのである。

 私とは年齢が離れていたので晩年の先生しか記憶にないが、思い出すままにその人柄に触れてみよう。

 度の強いメガネをかけた塚田は、痩軀鶴の如しと表現されたほどの計量で、升田とはウマが合い、よく二人で一杯呑んだそうだ。

 二人の親しさと塚田の軽量を、東公平氏が観戦記にこう記している。

 ある日、塚田は昼過ぎ早々に負けて将棋会館からいなくなっていた。

 だれかが「あれ、塚田先生はもう帰られたのかな」という。

 それを聞いた升田が「風食らって飛んで帰った。今日の風は強から、モミガラみたいに飛んでいった」

 塚田の軽量をすかさずモミガラにたとえる升田の機知に東さんは感心し、二人は30年来のケンカ友達である、と結んでいる。

 升田はふざけて塚田に「あんたは月でワシは太陽じゃ」などと云って塚田をムッとさせていたらしい。

 名匠は名匠を知る、そんなことを云えるほど二人には一脈通じるものがあったのだろう。

 昭和50年頃、棋界は新将棋会館建設の機運に沸いていた。

 塚田は実力者達に推されて会長に就任していた。

 棋士総会は侃諤喧囂、いつ果てるともない議論が続いている。

 そんな中、理事会の中央に座っていた塚田が突然「では今日はそろそろこの辺で」と閉会を宣言してしまったのだ。

 呆気に取られる棋士の面々、びっくりしたのは理事会で、副会長の一人であった大山が珍しく慌てた素振りで「塚田さんまだですよ」と小声でやんわり制していたのがおかしくて、妙に印象に残っている。

 お酒が大好きな塚田としてはカラスが鳴く刻限になると、そわそわしてくるようなのであった。

 酒仙のような先生からすれば、会館建設などというのは下界の出来事で、そんなことは下々に任せて早く居酒屋に行きたいだけの無邪気な振舞いだったのだ。

 紆余曲折はあったが、会館建設は着工に漕ぎつけ、工事中の間借り先は高輪の旧日本棋院。

 高輪通いをするようになってしばらくしたある日のこと、私は用事を済ませ夕方棋院から品川駅に向かって歩いていた。

 ふと気がつくと駅の方から塚田先生が歩いてこられる。先生は少し俯き加減に歩くのでこちらには気がつかない。

 私が近くまで寄って挨拶をすると顔を上げ、ごく普通に「君も呑むかね」と右手の物を渡そうとなさる。

 それはワンカップの日本酒であった。

 左手にはスペアをお持ちだ。

 まだ歩きながら呑む習慣はなかったのと意表を衝かれたのとで、辞退したが、今思えばありがたく頂戴して、そのまま棋院まで御送りすれば、何かお話が伺えたかもしれないと少し残念でもある。

 その後、酒席に御一緒する機会もなく先生は思いがけず早くに逝ってしまわれたのだから。

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塚田正夫名誉十段は、非常に寡黙な職人肌。決して無頼派ではなかった。

ただ、酒が大好きだった。

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真部一男八段(当時)のイメージする名棋士像、

  1. 勝負にギラギラしたタイプではなく、名利に活淡で人柄は飄々としている。
  2. 将棋に対しては筋金入りの軸が一本通っていて妥協のない職人気質。
  3. その人柄にはそこはかとないおかしみが感じられるような人。

の3条件。

1は、20年後の郷田真隆九段

2は、該当する棋士多数

3は、三浦弘行九段と行方尚史八段と澤田真吾六段

が瞬時に頭の中に思い浮かぶ。

時間をかけて考えると、1も3も、どんどん該当する棋士が増えてきそうだ。

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塚田正夫名誉十段のエピソード

他の業界でも立派にやっていけそうに見える棋士とそうではない棋士

大山康晴十五世名人と塚田正夫九段と七條兼三氏

名人の家主

対局中に少しだけ酔った正立会人