贈呈式会場に3年間眠った贈位状

近代将棋1984年1月号、能智映さんの「呑んで書く 書いて呑む」より。

オラガ王位は第一号

 来客第一号はだれか?待つ間は短かった。エレベーターの扉が開く。

「おやっ」。サッと現れた若者は紋付き袴。そのうしろには中年のご夫妻。なんと来客一号は高橋新王位自身とご両親だったのだ。こんなこともちろん初めて。早速、会場に入ってもらったが、”主役”三人がポツンと席についているのもまたなんだか珍妙だ。

 両親といっしょで居づらくなったか高橋君、例の小声で”早く着いたいいわけ”をする。

「実は近くの親戚の家で着替えてきたものだから」。もう袴のヒモは自分で結べるはかずなのに。でも、きっとだれかと話をして気持ちの高まりをおさえたかったのだろう。かわいい王位さまだ。

 そう思いつつ、ふっと三年ほど前に同じ「松本楼」で起こった小さな事件を思い出す。

 あのときの王位は中原さん。彼は着流しのまま車で来て、就位式場で羽織と袴をつける。その日も風呂敷を開き袴をつけた。そして羽織。きょろきょろ周りを見わたした中原さん、いつになくあわてて「あれっ、ない」と。

 いつも慎重な中原さんにしては珍しい。「いや、車に乗るときは持ってました。そうだ、車に忘れちゃったんだ」

 だが、もう遅い。車は帰ってしまった。なのに中原さんはけっこう落ち着いている。「じゃあ、こっちにしましょう。紋付きじゃないけど」と、どこから羽織を出してきた。

「えっ」と驚き、胸をなでおろす関係者たちに「いや、この就位式のあとにもう一つ会があって、その着替えを持ってきてたんですよ」用心深いというか、運が強いというか。いかにも中原さんらしい話ではないか。ちなみに、その消えた羽織は、式が終えるころ式場に帰ってきた。

 そんなことを高橋君にも話していると、高橋君は急に真顔にもどって、「そう、そう」とびっくりすることをいい出した。

「あのう、ぼく、この就位式が今日だというのを一昨日知ったんです。…….連盟の掲示板を見て」

 また「えっ!」である。たしか、この日取りは、高橋君の師匠・佐瀬勇次八段と兄デシで理事の西村一義七段らと、連盟で話し合って決めた。そして佐瀬さんがご両親に電話連絡しているのも、この目で見た。だから油断したのがいけなかったらしい。

 ぎょっとしたが、王位は怒るどころか遠慮勝ちにいい、ニコニコ笑っている。申しわけない気もあって、こんどは正面に飾られた賞品のほうへ案内する。

「へえ、これが記念品ですか。でも、ぼくはこういうものの価値がまったくわからないんで」と、またボソボソ。しかし、実は高橋君が陶芸品にけっこう詳しいことは何カ月か前に、この欄にも書いた。

 王位の賞品は、その陶芸品である。それも名古屋在住の一流陶芸家・加藤卓男氏作の「ラスター彩野草文花生」という逸品で「百万円に近いン十万円のものだ」と説明しても、高橋君はただ「ヘーえっ、どこへ飾ればいいかなあ」とまったく張り合いがない。

 そういえば、こんなこともあった。今春の片岡聡新天元の祝賀会のことだ。

 囲碁の天元戦もわたしの社が主催しており、そちらの記念品も十三代今右衛門氏作の陶芸品だ。それを見事に手中にした片岡君だったが、パーティーに出席した彼のお父さんはあっさりという。

「この皿は聡に渡してもネコに小判。わたしが預ります」ー「うーん」とうなっている高橋君が「ニャン」といい出しそうな気がして、思わず笑いを噛み殺したものだ。

 そうこうするうち、お客さんはどんどん入ってくるが、就位式というのはこのように下準備にも相当に気を遣う。

骨董品が出てきた

 約七、八十人は集まったろう。華やかなムード、拍手の中で高橋君は立った。しめくくりの謝辞だ。初めての経験、どう話すか、みな固唾を飲んで見守る。

―トツトツとしながらも、見事な謝辞だった。「ほっとしましたよ」と兄デシの西村さんや沼春雄四段。

 別間でのパーティーもにぎやかだ。師匠の佐瀬さんにマイクが渡ったとたんに音声が切れてしまったのは、偶然のハプニング。口の悪い沼さんら若手棋士たちは「能智さん、佐瀬先生に歌われるのがいやでわざと切ったんでしょう」と疑うが、それはぬれ衣。

 加藤治郎名誉九段、二上達也九段、加藤博二八段、北村昌男八段、関根茂八段らのほか、多くのジャーナリスト、若手棋士、紅一点の妹デシに当たる中井広恵二段も「学校を終えて千葉からとんできたの」と息せききっている。

 ご両親のところへあいさつに行っただれかが「高道ちゃんのウチは八百屋さんだけど、きょうはこの式のために休業だってさ」などという変な情報を持ってきたり、「近く開かれる東西の合同将棋記者会の参加者は約四十人らしい」などという事務的(?)な会話も人づてに伝わる。ただ呑むだけでない。このように、パーティーはわれわれ記者たちの情報交換の場でもあるのだ。

 しかし、やはり中には酔っぱらっておもしろいことをいい出す者もいる。

「高橋ちゃんは、あいさつのときにカンニングペーパーを持っていた」と疑わしいスッパヌキをするのはまだいいほうで、「きょうは花束贈呈がないね。寂しいから広恵ちゃんに大根束の贈呈をやらしたらどうかね」と、とんでもないアイディア(?)を披露する不届き者まで出てくる始末。

 でも、お祝いの席は底抜けににぎやかなほうがいい。

 ちょうど一年前の内藤国雄王位の就位式は「ホテル・ニューオータニ」で行われた。そのときは招待状を八十枚くばったのに、百人以上ものお客さんがきて「どうなってんの?」とてんてこ舞いさせられた。

 今回は、そのあでやかさはないが、新王位誕生らしく、若さにあふれたにぎやかなパーティーとなった。

 まずはめでたし。約二時間、わが高橋王位は堂々と、しかもソツなくお客さんと応待し続けていた。ころもよし、「そろそろ送りの車を―」となって、あのノシ袋や、陶芸品、王位杯などが車へと運ばれて行く。

 こんなときは酔っていても注意をはらわなくてはならない。「贈位状は運んだかね」に「大丈夫です。記念品といっしょに包みました」と係の人が教えてくれた。

 王位とご両親の車を見送りながら、またひとりで苦笑する。

 これも三、四年前、やっぱり中原さんの就位式の苦い思い出だ。その日も、このときのようにいろいろな荷物を持って「松本楼」の玄関先に出た。中原さんが、その荷物を両手いっぱいに持って車に乗り込もうとするときに、会場の係員がわたしのところへすり寄ってきてささやいた。

 そのときもびっくり、わたしは「なに、なに?」ととび上ったが。その人は、こういうのである。

「あの、申しにくいんですが、ウチの物入れの中に、きょうのと同じような賞状が入った桐箱があったんですが、もしやお宅のではないでしょうか」

 そんなバカな。だが、この「松本楼」はいつも王位戦の就位式に使っている。もしや、ということもある。ためしに「じゃあ、ちょっと見せて」といったら、相当に古びた桐箱をうやうやしく持ってきた。

 中をあらためてみる。―なんとレッキとした王位の贈位状。あきれたことに、年月日は三年も前のものになっている。

 あわてて、車に乗りかけた中原さんを呼びもどしてくる。ご本人も「まさか―」といっていたが、現物はまぎれもなく三年前の贈位状だから、ニセ物とは思えない。中原さんも「実は、ぼくのウチはこうした賞状が多いんで物入れにしまってあるんですが、古いのを調べてみたことがないので!」と頭をかく。

 五年ほど前に一度、やはり関係者の一人が就位式に向かう車の中に○○戦のカップのレプリカを置き忘れて、そのまま出て来なかったという話を聞いたことがある。それは後日、改めて作り直してタイトル者に贈ったといわれているが、そのレプリカは純銀製の立派なものだけに、まだどこかにしまわれるか飾られるかしているはず。となると、この世にまったく同じカップが二つあるということにもなる。しかし、こちらの贈位状は複製はなく、三年ぶりに日の目を見た。中原さんはよほど強運に恵まれていると感心したものだ。

 これらはもう時効に近い。関係者一同に沼君、田中寅彦七段、大島映二四段、そして何人かの記者仲間は銀座のおでん屋にくり出し、「ご苦労さん」と二次会だ。そんなところでも、さっきのような話が出て笑いのウズが巻く。

 恐らく、ほかの連中も何人かずつのグループで、あるいは新宿、あるいは六本木と好き好きに呑みまくっている違いない。

 わたし自身もそのあと「浅草橋のすし屋に居た」というマコトに近いウワサを聞くが、その深夜は自宅の玄関でやすらかに眠っていたことはたしかだ。

 しかし、こんなのはまだいいほう。今春開かれた米長さんの「王将、棋王二冠祝賀会」のあと、わたしは板谷進八段と新宿泊りとなったが、「その翌々日もまだ、米長の会のおみやげの入ったズタ袋をぶらさげて、連盟に現れた連中がいた」という話も聞いている。

 将棋のパーティーは高い、高いハシゴを作り、ときには二日も三日も酔っぱらい天国から降りられなくなってしまうのである。

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将棋の強い子供ほど忘れ物が多いと聞いたことがある。

ここで言う忘れ物とは、家から持ってくるべきものを忘れるのではなく、家に持って帰らなければならないものを忘れるということ。

このような忘れ物をしてしまった場合、「将棋が強くなる条件を自分は持っているんだ」と思うようにすると、あまり落ち込まないで済むことが多い。

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「その翌々日もまだ、米長の会のおみやげの入ったズタ袋をぶらさげて、連盟に現れた連中がいた」

米長邦雄二冠(当時)の記念祝賀パーティーは、1983年5月24日(火)に京王プラザホテルで行われている。来場者は700名。

火曜日の翌々日なので木曜日。火曜日と水曜日に家に帰らなかったということだから、かなりの猛者だ。麻雀をやり続けていた可能性が高いと思われる。