将棋マガジン1986年3月号、羽生善治新四段(当時)の自戦記「昇段の一局 目標は最高位の名人!」より。
12月18日、昭和60年最後の奨励会でした。この日までの成績は11勝4敗、後2連勝で四段昇段でした。そしてこの日が僕にとっての記念すべき日になりました。
昭和60年12月18日
▲三段 石川陽生
△三段 羽生善治▲7六歩△8四歩▲2六歩△8五歩▲2五歩△3二金▲7七角△3四歩▲8八銀△7七角成▲同銀△2二銀▲7八金△3三銀▲3八銀△7二銀▲3六歩△7四歩▲3七銀△7三銀▲4六銀△6四銀▲6八玉△9四歩▲3五歩△同歩▲同銀△8六歩▲同歩△2二銀(1図)
意外な戦型
昇段の一局の相手は石川三段です。僕は矢倉になると予想しましたが、角換わり早繰り銀というほとんど指したことのない戦型に誘導されました。△2二銀のところでは△8五歩や△5五銀も一局ですが、結局受けにまわされそうなのでやめました。なお、△8六歩と突き捨てないで△2二銀とすると、▲6六歩と突かれてしまいます。
1図以下の指し手
▲2四歩△同歩▲2三歩△同銀▲2四銀△同銀▲同飛△2三歩▲2八飛△3六歩▲4五角△5四角▲2三角成△同金▲同飛成△2二歩▲2四竜△3三銀▲2五竜△7五歩▲同歩△3七歩成▲3四歩△2七角打(2図)難しい戦い
1図以下の指し手は、どれが良い手か悪い手か見当がつきませんでした。しかし△3七歩成を手抜くなら、必ずこちらが有利になる手順があるはずと思い、長考に入りました。
まず第一感は△4七とでしたが、▲3三歩成△同桂▲3四竜△3二歩▲2四竜で自信がありませんでした。次に考えたのが本譜の△2七角打でした。が、ここは△3六角打▲同竜△同角▲3三歩成△4七ととするべきでした。
2図以下の指し手
▲3三歩成△同桂▲3五竜△4九角成▲3三竜△7六歩▲6六銀△4八と▲3一竜△4一金▲1一竜△5八と▲7九玉△5九馬(3図)見落とし
本譜の手順は、△7六歩のところを△4八と▲3一竜△4一金▲1一竜△5八と▲7九玉△5九馬で、こちらに詰めろがかからないので勝ちと最初は思っていたのですが、平凡に▲3三桂とされて負けになることに気がつきました。この時負けにしたかと思いましたが、まだ時間がだいぶあったので、色々と読んでみると△7六歩以下の手順で勝ちだと思いました。
何故かというと、本譜の手順で行くと△5九馬が△6九馬▲8八玉△8六飛以下の詰めろだからです(△7六歩を決めないと打歩詰)。それに△5九馬が受けにくいと思いました。しかし何度も読みを確かめているうちに、一つだけ嫌な受けが浮かびました。
3図以下の指し手
▲8七銀△7七歩成▲同銀△8七角成▲同金△6九馬▲8八玉△7八銀▲3三角△6二玉▲2二竜△5二金左▲7四桂△7三玉▲7六銀△7九馬▲7七玉△8九銀不成▲8五銀△7五銀▲5五角成△6四桂▲8四銀打△同飛▲同銀△同銀▲5六金△7八銀成(最終図)
まで96手で羽生の勝ち寄せ切る
嫌な受けとは▲8七銀です。この手を指されてまだまだ難しいと思いました。
普通は△6九馬▲8八玉△6八とですが、平凡に▲同金△同馬▲7八金で寄りません。
△7七歩成以下は苦心の手順です。普通は△7八銀で必至の形なのですが、▲7六銀で容易ではありません。▲8五銀では▲8五歩のほうがまだ紛れる余地があったと思います。▲8五銀を△同飛と取ればそれまでだったのです。だいぶ震えていたと思います。
時間に追われて石川三段は▲5六金としました。僕は△7八銀成▲6六玉△7五銀打▲6五玉△7六銀打▲同金△同銀▲6六玉△7五金までの詰みを何度も何度も確かめました。そして△7八銀成と指し、石川三段は投了を告げました。
こうして僕の奨励会生活に、ピリオドを打つことができました。
奨励会時代を振り返って
僕が奨励会に入会したのは昭和57年12月、まだ小学生の時でした。それからちょうど3年で奨励会を卒業することができました。自分でも信じられないくらい順調なペースでした。
その理由を考えてみますと、入会した時にはまわりの人たちよりやや若かったので、受験などの障害もなく将棋に打ち込めたのが良かったのだと思います。
さて、これからの僕の目標は名人です。やはりこういう将棋の世界に入ったのですから、最高位を目指してみたいと思います。
四段になりましたが、これに満足せず慢心せず、自分に納得のいくような将棋を指していきたいと思います。
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中学3年の羽生善治新四段。
自分が中学3年のときに、このようなしっかりとした文章は絶対に書けなかったと思う。
1985年年12月18日、この日から将棋界の新たな歴史が動き始める。