芹沢博文九段が亡くなった日のこと

将棋マガジン1990年3月号、大野八一雄五段(当時)の「忘れ得ぬ局面 忘れたい局面」より。

 この8年間に何局指したであろうか。

 どの将棋も自分なりに頑張った、なのに指し手をはっきりと覚えている将棋が全くないのである。

 呆れ返ることではあるが事実なのだから仕方がない。

 但し、一生忘れぬ対局がある。

 昭和62年12月6日、義父・芹沢博文入院の知らせを聞く。

 翌日、昼、義母より入院の手続きをする為にハンコを持って来てほしいとの電話を受け病院へ行く。

 義母と正面玄関で会い、書類に書き込み手続きをすませ病室に入るとびっくりした。

 そこには、数か所くだを差し込まれ、痛い痛いとうめいているおやじさんの姿があった。目は黄疸で黄色に染まり、意識こそはっきりしているものの、数分間隔で洗面器に血の交じった胃液を苦しそうに戻す。

 1週間前は酔っていてもあんなに元気そうだったのに、余りの変わり様にしばらく声が掛けられなかった。

 1時間程、ベットの脇に義母と言葉も交わさず並んで座っていると、医師より呼び出しを受ける。

 看護婦に案内され部屋に入るとさっそく、おやじさんの容体についての説明をされる。

 健康体の数値との余りの差に聞かされていて全身に震えがくるような重体であった。

 医師も「今までこれだけの数値の経験がありません。覚悟だけはしてください」と言う。

 病室に戻り義母に一言、「医者は、ああ言っているが、僕は助かると信じています」となぐさめにもならぬことを言い、家に帰り急いで親戚、縁者に電話を掛けまくった。が、「覚悟だけはしてください」の言葉だけは女房にも言わなかった。

 12月8日、順位戦7局目。

 7時、義母より「夕べから昏睡状態になった」との電話を受け、取るものも取らず女房と娘を連れてタクシーに乗り込む。道路混雑の為に40分もかかり病院到着。娘を脇に抱え階段を駆け上がり病室に飛び込む。目の前に人工呼吸器を鼻から通され一生懸命生きようと頑張っているおやじさんの姿を見たとたん涙がこぼれ落ち止まらなくなってしまった。

 昨日、医者から言われ覚悟はしていたものの現実のものとなっては己のコントロールが利かない。

 おやじさんに連れられよくやった競輪、二人だけで酒を酌み交わし互いに涙を浮かべながら語り合ったこと、よくワイン代を賭けて打った碁、どなられたことなどたくさんの想いが回想し、声を殺すだけで精一杯だった。

 1時間近く見守った後、自分なりに別れを告げ連盟に向かう。

 9時50分、顔を洗って対局室へ入る。

 10時対局開始。

 昼休みを過ぎた頃になると連盟内は芹沢九段の噂でいっぱいになった。

 中には、直接私に容体を聞きに来る先輩もいたが、私は何も答えずトイレへと逃げた。

 15時頃、病院へ見舞いに行った人達が戻ってきて詳しい話をしていたが、私は何も聞かないように盤に集中していた。

 夕休、食べ物は喉を通らず、こういう時の休み時間程辛いものはない。どうしても余計なことを考えたりしてしまう。

 また、周りの者も気遣ってか誰も近寄って来ない。

 21時頃、局面は1図。

 ▲5六歩と打って△5六同歩▲同銀△5五歩となったところで、▲4七銀と引くのでは、実は一手パスしたことになってしまう。と言って▲4五銀とぶつけるのでは、△4七歩と垂らされて自信がない。

 一瞬、合わせてただ戻るなんて手じゃない、と▲4五銀と戦ってしまおうかとも思った。

 それと、早い流れにして早く病院に行こうかとも少しだけ考えた。が、それだけは出来ず▲4七銀と辛抱した。

 我慢した甲斐があったのか、相手に直ぐ疑問手が出て、1時間後の2図では優勢になっていると確信した。

(中略)

 0時30分終局。

 その後、秒読みになったがなんとか一手差をキープすることができた。

 終局と同時に昼からずっと待機していてくれた田中寅彦八段が入室してきた。

 先輩とは本当に有り難いものである。

 対局者の中田章道五段には、無礼は承知で、理由も言わず「失礼します」とだけ言い、田中さんの車で病院へ急いだ。

 20分程で病院に着き病室に入ると、おやじさんの呼吸は朝の状態と少しも変わっていないように思えた。

 心の中で「勝ちましたよ」と報告をして顔を見つめると、もしかしたら助かるかもと思えてきた。

 しかし、それも長くは続かず、急に足が突っぱりだし、体が硬直状態に陥り、同時に呼吸が弱くなり、以後回復することもなく、昭和62年12月9日4時2分帰らぬ人となった。

 「大野さんが来るまで頑張ったんだよ」と叔母が泣きながら言うと周りもうなずきながら泣いていた。

 もう、声を殺す必要もなかろう。以後3日間私は好きなだけ泣いた。

 原稿の依頼は、忘れ得ぬ局面、忘れたい局面だったが、この将棋にしても、指し手は全然覚えておらず、この原稿の為に並べて書いた始末である。

 ただ、並べている内に、この日の出来事が鮮明に想い出せたのは、今の私にとって幸せかと思う。

 私も早や30を数えた。

 悔いの残らぬよう頑張って生きたい。

* * * * *

入院して間もなく、皆に見守られながら亡くなった、という部分だけは救いだが、やはり人が亡くなる話は本当に悲しい。

芹沢博文九段、逝く(前編)

芹沢博文九段、逝く(後編)

* * * * *

近代将棋1985年6月号、能智映さんの「呑んで書く 書いて呑む」より。大野八一雄四段(当時)と芹沢博文九段のお嬢さんの結婚披露宴でのこと。

 その日は3月24日、芹沢博文九段が”うれしい本心”をかくして怒りまくった日である。

(中略)

 開宴前の控えの間。”悲しみの芹沢さん”はもう相当に呑んでいる。一人娘を嫁に出す父親の気持ちの一端がそこにある。仲人の米長さんは例によってあいそよく来賓と談笑し、囲碁の藤沢秀行九段は「オレ、胃をぶっこわしてんで呑めねえんだよな」と手持ちぶさたのてい。

(中略)

 仲人の米長さんのあいさつで披露宴がはじまった。この人の話はいつも機知に富んでいておもしろい。例のいたずらっぽい目で芹沢さんをギロッとにらみつけてからしゃべり出す。型どおりのあいさつはほんの30秒ほど、あとがすごい。

「新婦のお父さんの芹沢さんは、きのうまで『結婚は許すが、身体をさわられちゃあたまんない』などといっていました。でも、きょうからは仲人の私が許します。もう”芹沢”という文字を忘れて、おおいに、ご自由にさわりまくりなさい」

 仲人のあいさつも破格だが、その厳粛な場面に大声の野次がとんだのにはだれもが驚いた。

「なにいってるんだよう!」

 なんと、その声の主は本来なら末席で静かに立っていなければならない新婦の父親の大声なのである。澄まして話し続ける米長さんに、ガンガン野次る芹沢さん、披露宴は最初から波乱含みの様相だ。

(中略)

 そんなことが頭をかすめているうちに大野君の宴はクライマックスを迎えていた。

 だれかがマイクを持って大声でガナっている。だれあろう、主役は芹沢さんである。もう、その話を聞いているような雰囲気ではない。数日後に福本さんから聞かされた。

「セリちゃん、すごいことをいってたんだよ。『エーゲ海に特別任務を持ったフカを放す』だってさ。そのフカに大野君の下半身を食わせちゃおうっていう恐ろしい発想なんだ。あの新婚夫婦、ギリシャへ新婚旅行に行ったんだってさ」

 また数日たって、芹沢さんと電話でおしゃべりした。またまた怒っている。

「大野の野郎、どこで情報を得たのか、エーゲ海で泳がずに帰ってきやがった!」

 なんたる岳父。娘を嫁に出す親心は、まだわたしにはよくわからない。

* * * * *

芹沢博文九段が亡くなる2年9ヵ月前のこと。

大野八一雄四段(当時)は、この2年9ヵ月の間に芹沢九段とのたくさんの思い出ができたことだろう。

「もう、声を殺す必要もなかろう。以後3日間私は好きなだけ泣いた」

に全てが込められている。