何を考えているのか全く読めない棋士、思ったことは何でも話す棋士

将棋マガジン1991年3月号、高橋呉郎さんの「田中寅彦 快活すぎる闘志」より。

 ポーカーフェイスの効用は、相手に心の動きを悟らせないところにある。プロ棋士にも、われわれシロウトがみれば、ポーカーフェイスの持ち主と思える棋士がかなりいるけれど、ほとんど話題にならない。対局していれば、微妙な動きを感じとれるものらしい。対局中はわからなくても、感想戦をすれば、相手がどんな思考方法をとるか、ある程度つかむことができる。

 ところが、ひとりだけ例外がいるようだ。屋敷伸之棋聖である。中原誠名人は、屋敷と棋聖戦で二度、五番勝負を争ったが、屋敷がなにを考えているのか、さっぱりわからないという。森下卓六段も『将棋世界』の先崎学五段によるインタビューで、屋敷の性格についてこういっている。

「本当に分からない。あれだけ性格の見えない人は珍しいです」

 ポーカーフェイスとはちがうけれど、これは、たいへんな武器だろう。まさに”お化け屋敷”である。

 その対極にある棋士の典型が、田中寅彦八段ではないかと思う。これほど自分を率直に表現する棋士もめずらしい。

 将棋界で連想ゲーム式に「闘志」といえば、まず「トラちゃん」の名前が挙がってくるはずだ。そのくらい、田中は「闘志の男」で通っている。対局中、闘志を全身から発散させ、内に秘めて平静を装ったりする気取りはさらさらない。ときには、相手の面上をにらみつける。

 近年では、羽生善治の”ハブにらみ”が話題を呼んだが、顔の怖さからいったら、年季のはいったぶんだけ、”トラにらみ”に軍配が上がる。羽生のほうは、にらむといっても、ガンを飛ばす程度で、ほんの一瞬にすぎない。しかも、最近は、自分でも気にしたらしく、自粛の傾向にある。

 いっぽう、田中は数秒間はにらみつづける。この数秒は、盤側で見ていると、意外なほど長い。相手も、そんな雰囲気を感して、たいてい盤面に目を向けているけれど、もし顔を上げて、視線がぶつかったらどうなるのか、と余分な心配までしてしまう。

 棋士は盤上を見つめるのが最大の仕事だから、しぜんに目つきが鋭くなる。なにげなく目を向けるときでも、並の人間の目つきとはちがう。私は、観戦記を書きはじめたころ、閉口したおぼえがある。

 年に六、七回しか将棋会館に行かないので、当方の顔を知っている棋士は、ごくわずかしかいない。対局室に見慣れぬ男がはいってくれば、一瞥するのはとうぜんとしても、どの目つきも尋常ではなかった。何人かに集中砲火を浴びたりしたら、たまったものではない。安心して対局室に参上できるようになるまで、ゆうに五、六年はかかった。

 最初に田中を見たのは、たしか五段のときだったと記憶する。私のほうは、盤側に坐っても、まだ落ちつかなかったころである。こちらは、たぶんに被害者意識があるから、田中を見たときも、やはり目つきの鋭さが印象に残った。

 そのころ、田中は若手棋士のなかで、ひときわ目立つ存在だった。それも、ただ成績がよかったせいばかりではない。長身のうえに、肩を怒らせて歩く。おまけに目つきが鋭いときているので、いやでも目についた。これは、相当につっばった青年だなと思った。

 年とともに、怒り肩のほうは、だんだんおさまってきたが、いまでも、ときおり見かけることがある。

 昨年、田中は王将リーグ入りの一局を屋敷と争った。その日、私も観戦する対局があって、将棋会館に行くと、対局室の入口で、羽織袴姿の田中に会った。田中は「きょうは斬られ役です」と口ではおどけてみせたが、顔はにこりともせず、肩を怒らせて対局室にはいっていった。

ピエロになっても

 田中は昭和五十一年に四段に昇段した。同期に谷川浩司がいる。谷川は当時から将来の名人快補と目されていた。田中は五歳下の谷川少年を最大のライバルにした。負けん気の強い田中の性格からいって、自分より目下の男が名人候補と騒がれるのに、耐えられなかったということだろう。

 この両者、五十二年の順位戦で初めて対戦した。田中は「この男にだけは絶対に負けられない」と闘志をかき立てた。また「負けるはずがない」と自己暗示もかけた。

 将棋は、得意の居飛車アナグマで田中が快勝した。中盤で早くも、田中は「これで名人候補か」と思ったりもした。本当は、まだたいへんな将棋だったらしいのだが、すこしでもいいと、すぐに舞い上がってしまうのが、田中の特性でもある。

 谷川少年は、勝ち目のない将棋をとことん頑張った。田中は、もう投了するしかないしかないじゃないか、と思いながら指しつづけている。ようやく少年が投了したとき、田中は、つい「もう、いいんですか」といってしまったー

 このくだりを谷川との共著『対決』で読んで、私は思わず吹き出した。いかにもトラちゃんらしいと思った。

 田中は闘志を露にするだけでなく、思ったことを平気で口に出す。それが活字になったりすると、”不遜な男”という印象を与えかねないが、直接、話を聞くと、不遜のかけらも感じさせない。”さわやか流”を通り越して、あっけらかんとしたところさえある。べつの言葉でいえば、まことに気のいい男なのです。

 対局中は、肩を怒らせて相手をにらみつけたり、相当に構えるほうだけれど、ふだんは、およそ構えたところがない。

 昨年度のA級順位戦で、田中は四勝しながら、降級の貧乏クジを引いた。四勝なら安全圏とみるのが常識だから、天国から地獄へ落ちたようなものだろう。その二日後に、将棋会館で田中とばったり出会った。こちらが挨拶に窮していると、田中のほうからいいだした。

「いやーおどろきました。四勝で降級というのは順位戦はじまって以来、初めてだそうです。これだけひどい目に遭ったんですから、こんどは、よほどいいことがあるかもしれません」

 谷川が名人になってからも、田中は「あのくらいで名人になっている」と公言した。ご当人にすれば、ごくしぜんに思ったことをいったにすぎない。いずれ盤上で決着がつくことだから、あのくらいの発言があっても、いっこうにさしつかえがないはずなのに、そうは受けとらない向きもあった。「時の名人にたいして失礼だ」と白い目で見る。

 すくなくとも田中には、谷川を貶めるような悪意のあろうはずがない。谷川は弱いと公言することによって、自分が名人候補であることを宣言しつづけたかったのだろう。ヘタをすれば、ピエロになりそうなことを、平気で発言するあたりが、トラちゃんのトラちゃんたるゆえんでもある。

 さすがに、このときは気がさしたのか、以後、谷川についての公式発言は慎重になった。が、本心は、いまでも変わっていないはずである。

(中略)

 この年、田中は南芳一から棋聖位を奪って、初のタイトルを獲得した。順位戦でもA級復帰の目が出てきた。棋王戦でも、挑戦者決定戦まで駒を進めた。

 棋聖戦の挑戦者が中原誠に決まって、田中はこんな構想を描いた。

 中原の挑戦を斥けて、棋聖位を防衛する。棋王戦は谷川棋王(当時)からタイトルを奪う。さらにA級に復帰を果たせば、将棋大賞は確実だろうー

 ふつうはそう思っても、なかなか口には出さないものだが、田中は平気で口にする。それによって、自分に目標を課し、闘志をかき立てているのはわかるけれど、明るすぎるというか、快活すぎるというか、不気味さがなくなってしまう。かえって安心させるという意味合いもあるかもしれない。

 年が明けて、田中二勝一敗で迎えた棋聖戦第四局。田中は、いい将棋を逆転されて、タイトル防衛はお預けになった。数日後の棋王戦挑戦者決定戦でも、南に敗れた。さらに棋聖戦最終局でも負けて、A級復帰だけは実現したものの、将棋大賞は画餅に帰した――すべての決着がついて、田中はボヤいていた。

「棋聖戦の第四局がケチのつきはじめですね。途中で勝てると思ったんですよ。翌日は、島(朗)君の竜王の就位式があったんです。ぼくは兄弟子ですからね。タイトルを防衛して駆けつけたら、たぶんスピーチをやらされるだろう。島君はオシャレで有名だけれども、兄弟子として、ちょっと注文をつけてやろうかとか、ちらっと考えたりしたんですよ。いい気なもんですけどね。そしたら、いつのまにか、将棋がおかしくなっていました」

 半分は冗談にしても、敗軍の将で、こういうユニークな感想を語れる棋士は、田中くらいかもしれない。外部の人から、将棋界はクライ、という声をよく耳にする。田中みたいに明るすぎるほどの棋士が、ちょくちょくタイトル戦に登場するようになれば、かなり印象もちがってくるはずだが……。

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田中寅彦九段はサービス精神満点。

このように、思ったことを何でも言ってくれる棋士が一人でもいると、プロ将棋の面白さの深みが増す。

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「翌日は、島(朗)君の竜王の就位式があったんです。ぼくは兄弟子ですからね。タイトルを防衛して駆けつけたら、たぶんスピーチをやらされるだろう」

優勢な局面でこのような煩悩が出ると、逆転される可能性が高いようだ。

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屋敷伸之棋聖(当時)は、最年少棋士である時期が3年間も続いた。周囲は年上の棋士ばかりなので、遠慮の気持ちがあって、あまり自分を出していなかったという。

屋敷伸之棋聖(当時)「お化け屋敷と呼ばれて」

先崎学四段(当時)「みんなウソつき。タヌキかキツネという感じですね」

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最年少棋士だったことがある棋士とその期間については、別の記事で(加藤一二三九段以降)。

→最年少棋士の推移(明日)