「だれがいちばん強そうにみえるか、と訊かれたら、私はノータイムで加藤一二三九段と答える」

加藤一二三九段を語った名文。

将棋マガジン1991年5月号、高橋呉郎さんの「加藤一二三 完全主義者の彷徨」より。

「大豪」ここにあり

 将棋ファンの裾野にいるような友人知己から、よく同じ質問を受ける。

 だれがいちばん強いのか―

 二十年前なら、答は簡単だった。将棋界のだれに訊いても、十人が十人、大山康晴と答えたにちがいない。十年前なら、中原誠と答えることができた。

 いまは、そうはいかない。強い棋士なら、何人もいるけれど、ひとりだけは指名しかねる。しいて答えようとすれば、それはもう好みの問題に属する。

 しかし、だれがいちばん強そうにみえるか、と訊かれたら、私はノータイムで「加藤一二三九段」と答える。中原・米長・加藤の三強時代は、すでに過去形で語られる時代だが、加藤に対する印象は、いまだに変わっていない。

「大豪」という冠詞が、加藤には、だれよりもぴったりするような気がする。大山は、大豪というより「超人」ないしは「怪物」に近い。中原は大豪と呼ぶには、人格円満にすぎて、ゴツイ感じがしない。米長には、これが男の生きる道、とでもいいたげな、独特の美学がつきまとっている。大豪に美学はふさわしくない。

 加藤の強さについては、いまさら、うんぬんするまでもないだろう。なにしろ、「神武以来の天才」である。晩年の芹澤博文には、多少のアイロニィもこめて、「元天才」の呼称がついたが、加藤は”元”つきの天才と呼ばれたことはいちどもない。

 将棋は正攻法で、抜群の破壊力を発揮する。体軀も堂々としているので、ひところ、「重戦車」のニックネームがついた。敬虔なカトリック信者である加藤は、戦車が戦争のイメージを強調することを嫌って、不満をもらした。べつに正式に抗議したわけでもないが、いつしか”重戦車”の呼称は立ち消えになった。このへんは、加藤の人徳というより、貫禄のしからしむるところかもしれない。

 戦争がいやなら、相撲はどうか。私は、加藤の勝ちっぷりを見て、現役時代の北の湖を連想する。全盛期の北の湖は、小憎らしいほど強かった。私は、そのころ仕事の関係で、何度か記者席から北の湖の土俵を見る機会があった。

(中略)

 そんななかでも、北の湖は、ひときわ強かった。格下の力士を負かすときなど、土俵に叩きつけるというより、ひねりつぶすといった感じに近い。おまけに、投げ飛ばした相手が立ち上がるのに、手を貸そうともしない。見向きもせずに、大股で引き上げてくる。

 加藤の勝ち将棋にも、同じようなところがある。体軀も威風堂々としているから、将棋の内容とは関係なく、力でねじふせたような趣が濃い。

 何年か前、チャイルド・ブランドと騒がれたころの佐藤康光との対局を観戦した。感想戦も終わり、加藤が席を立ってから、あらためて、佐藤に感想を求めたら、「力負けしました」とぽつりと答えた。

因縁の対局で

 一九八七年十二月、私が観戦した対局の隣で、A級順位戦の加藤・米長戦が進行していた。これが凄まじい将棋だった。井口昭夫氏の観戦記で、ご記憶のある人も多いかもしれない。ちなみに、井口氏は、この観戦記で第一回将棋ペンクラブ大賞を受賞している。

 その日は、本誌の発売日だった。対局中の棋士が、できあがったばかりの将棋雑誌に目を通す光景は、よく見かける。が、この日の米長は、対局開始から、いささか常軌を逸していた。

 加藤の考慮中、米長は、かたときも雑誌から目を離さない。こちらから眺めていると、午前中、ずっと雑誌を読みふけっているようにみえた。それもそのはずで、観戦記によれば、米長の午前中の消費時間は、たったの八分。これだけだけでも、およそどんな雰囲気か、想像がつくと思う。

 この日の米長は、あきらかに度を越していたが、加藤の対局態度も、棋士のあいだで、しばしば物議をかもしていた。緊張のあまりに発する空咳は、生理現象とはいえ、被害を訴える棋士がすくなくなかった。また、相手のうしろに回って、盤面を眺める所作は、多くの棋士のひんしゅくを買っていた。米長は、たぶんに茶目っ気も手伝ってか、”加藤批判”の急先峰を自任しているフシさえあった。

 そんないきさつを知っていたので、私は、これは目が離せないと思った。こちらの観戦をおろそかにする気はなかったけれど、あちらの光景は、顔を上げれば、自然に目にはいってくる。なんとなく、ダブル観戦の気分になっていた。

 午後にはいると、例によって、加藤は長考を連発した。さすがに、米長も、もう読みつくしたのか、雑誌は盤側に置いていた。

 そのころになると、加藤の顔面は紅潮し、ズボンをずり上げながら、中腰になる得意の動作が、何回も出はじめる。加藤の対局では、つねに見られる光景だが、朝からのいきさつがあるので、雰囲気はまるでちがう。中腰になった姿は、まさに仁王立ちの観があった。

 米長は、ことさら、われ関せず、といった顔をしつづけた。ふだんは話好きの米長が、対局開始以来、一言も発していないのも、なんとなく不気味だった。

 クライマックスは夕食休憩後にやってきた。すでに秒読みにはいった加藤が中座して、足早に対局室を出ていった。ほどなく、廊下のほうから、激しく空咳をする音が聞こえた。すると、米長がそちらに顔を向け、まじめくさった顔で空咳の真似をした。このときばかりは、こちらで対局中の大山も、思わず吹き出してしまった。

 すぐに戻ってきた加藤は、米長のうしろに立って盤面を眺めはじめた。空咳の真似が聞こえて、そのお返しのつもりかどうか、知る由もない。米長は、加藤がうしろに立っているのを知りながら、眉ひとつ動かさずに、盤上を見つめていた。

 残念ながら(?)、加藤が着座してまもなく、こちらの将棋が終局した。あちらは、終盤のツバぜり合いがはじまっている。だいたい、こういうとき、先に終局した将棋の感想戦は、別室で行われる。

 終局と同時に、大山が相手の棋士をうながした。私は、まことに中途半端な思いで、対局室を去る羽目になった。

 感想戦を終えて、控え室に行くと、数人の棋士がモニターテレビに映る米長・加藤戦を検討していた。やがて、加藤の猛攻をカカトでしのいだ米長が、即詰みに討ちとった。終局を見とどけて、私は、自分の担当した将棋が終わったような気がした。

 感想戦の模様は、井口氏が観戦記のしめくくりで、鮮やかに伝えている。<二人は局後の検討に入った。勝った方が、おごるわけでもなく、負けた方も悪びれず、対局中のあの切迫感がうそのようである。こちらは、うそだ、うそだ、と叫びたい衝動に駆られたくらいである。何がうそで何が真実なのか、本当に分からない人達である。立ち上がってからも、二人は何かおかしそうに談笑していた>

両手打ちの一発

「本当に分からない人達である」とは、まことにごもっともで、とくに加藤には、並の棋士とかけ離れた部分がある。

 某日、加藤の対局を観戦すべく、将棋会館におもむくと、対局室の机の配置が、ふだんとちがっていた。通常、一室で二局あって、観戦記者がつくときは、二面の盤をはさむ形で、記録と観戦用の長い机が置かれる。

 ところが、その日は、二つの対局を仕切るように、小机が置かれていた。私の席は、その小机で、記録係と向かい合って坐る。つまり、対局者と並行して坐ることになるので、手前の対局者は横顔しか見えない。観戦用には、歓迎すべき位置ではないけれど、記録係の少年にいわれるままに坐った。

 ほどなく、配置替えの理由がわかった。控え室で顔を合わせた観戦記者氏が解説してくれた。

「おそらく、加藤さんが、そうしろといったんですよ。隣の棋士にのぞかれるのを、いやがるらしい。このあいだも、加藤さん、順位戦で、昼休みにひとりで机の位置を変えちゃったんです。きょうは、隣が大山名人でしょう。やっぱり、気になるんですよ」

 それで、ナットク。ほかの棋士ならともかく、加藤ならしょうがない、と思わせる異質な面がある。そんな芸当ができるのは、加藤だけだろう。

 最初に観戦したときから、やはり、「神武以来の天才」といわれるだけのことはあると思った。ちょっと、並の棋士とはちがうんですね。

 対局姿は、テレビで何度も見ていたが、実物は、それより数段、迫力があった。加藤は、体軀のことに触れられるのをいやがるようだが、正座をすると、モモの高さが30cmはある。着座して、こんもりした両手で、駒箱をむんずとばかりにつかむ。その手つきからして、力感が溢れていた。すでに、このとき、私は、ああ、これは北の湖だと思った。

 三強時代のことだから、加藤が強いのはわかっていたが、巨体に充満した覇気が、終始、相手を威嚇しているようにもみえた。そればかりではない。中盤、加藤は駒台の角をつかむと、左手までそえ、腰を浮かして、薪割りを振り下ろすように、敵陣に叩きつけた。

 私は、それを見て、相手はずっと後輩だし、形勢もいいので、お愛嬌にやってみせたのかと思ったが、さにあらず、加藤は、ニコリともせずに、盤面をにらんでいた。

 駒音を立てる立てないはべつにして、棋士はだれでも、戦意が高揚してくれば、駒をもつ手に力がこもってくる。が、両手打ちの一発というのは、後にも先にも、このときの加藤以外に私は知らない。初会にして、たいへんなフシギ人間だと思った。

大山の影

 加藤の長考については、いまさら、私が説明するまでもない。一言でいえば、つねに最善を求める完全主義者の宿命みたいなものだろう。対局室の机の位置を変えるのも、加藤流の完全主義では、あの場面の最善手ということになる。

 某週刊誌が、加藤に将棋欄に登場してもらったので、雑誌を送った。すると、加藤から電話がかかり、今後、雑誌を送らないでほしい、といってきたという。子どもの目に触れると配慮したらしい。

 ふつうは、そうは思っても、そこまではしない。まさか全編、ヌードやお色気記事であるはずはないから、ざっと目を通して、あとは適当に処分する。加藤には、それができない。家族の目に触れないように処分するのは、妥協であり、最善手ではない、と考えてしまう。結論を出すまでに、長考したかどうかはわからないが、そうと決まれば、断わる一手ということになったにちがいない。

 かつて山口瞳氏が加藤に、なぜ、カトリックに帰依したか訊ねた。加藤は、自分はつねに最善手を求めているが、人生において、カトリック信者になることが最善手であると思ったからだ、と答えたそうだ。

 それに関連して、もうひとつ―五味康祐氏の「勝負師の栄光と哀歓」というエッセイに、こんな一節がある。

<某記者に聞いた咄だが、或る日、記者と加藤がバッタリ出会った。加藤はこれから名古屋へ逃げてゆくと言った。逃げるというのがいぶかしいのでただすと、「大山さんと指して負けた。大山さんの強さが初めて分った。とても敵わない。それが悲しいので逃げたくなった」と言ったという>

 昭和三十四年に書かれた文章である。翌年、加藤は名人戦挑戦者になったが、大山にこっぴどくやっつけられた。

 私は、加藤がカトリック信者になった背後に、大山の影をみる。もちろん、大山に勝たせてくれ、と神に祈ったとは思わない。いうなれば、加藤は、神に祈ることによって、精神上の身辺整理をしたかったのではないか、と思う。

 将棋を離れても、大山の影が追いかけてくる。大山に負ければ負けるほど、影はまとわりついて離れない。ついには、加藤一二三という存在自体が脅かされる。しつこい影を断ち切るには、なまなかの手段では通じない。

 最善手は神に祈ることにある。それによって、自分の存在を確認できれば、盤上で最善手を求めることにも通ずる――私は、加藤の信仰が深くなった過程を、このように解釈している。

 ここで、米長を引き合いに出せば、米長は死んでもこういう考え方はしない。将棋は芸である。芸は人生体験の集大成である、と考える。きれいごとの人生を歩んだのでは、きれいごとの体験しかできない。泥沼のような人生を這いずりまわってこそ、芸の真髄に近づくことができる、というのが米長流である。じっさい、米長は、たぶんに破滅願望さえもっているように見受けられる。

 だからこそ、米長は、暗に加藤を名指しているような発言をする。それだけ、加藤という棋士の存在が大きいということにもなる。

 加藤がいないA級順位戦は、やっぱり寂しい。完全主義者の苦悩は、A級にいてこそ、絵になるような気がする。

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近代将棋1988年3月号、撮影は弦巻勝さん。

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「だれがいちばん強そうにみえるか、と訊かれたら、私はノータイムで『加藤一二三九段』と答える」

2004年の竜王戦第1局〔森内俊之竜王-渡辺明六段戦〕の控え室を訪ねる機会があった。

控え室では、立会人の加藤一二三九段が正座をして、一人で継ぎ盤(六寸盤)に向かって検討をしている最中だった。

少し離れた所を私が歩いていると、熟考していた加藤一二三九段が駒を動かした。動かしたといっても、全身全霊を込めるような、盤が割れんばかりの打ちつけ方。

その瞬間、私はたまたま加藤一二三九を盤をはさんで正面に見る形となったのだが、その迫力にビックリするとともに、ものすごいオーラを感じたものだった。

実際にも将棋は強いわけだが、視覚的にも加藤一二三九段は、升田幸三実力制第四代名人とともに、一番強そうに見える棋士だと思う。

森内・渡辺物語(前編)

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「加藤の強さについては、いまさら、うんぬんするまでもないだろう。なにしろ、『神武以来の天才』である。晩年の芹澤博文には、多少のアイロニィもこめて、『元天才』の呼称がついたが、加藤は”元”つきの天才と呼ばれたことはいちどもない」

本当に格好いいと思う。

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「加藤の長考については、いまさら、私が説明するまでもない。一言でいえば、つねに最善を求める完全主義者の宿命みたいなものだろう。対局室の机の位置を変えるのも、加藤流の完全主義では、あの場面の最善手ということになる自分はつねに最善手を求めているが、人生において、カトリック信者になることが最善手であると思った」

難しいことではあるが、常に最善を求める姿勢を見習いたい。