河口俊彦七段の引き出し

河口俊彦七段の文章の面白さ・深さの秘密がここにある。

近代将棋1995年10月号、青野照市九段「実戦青野塾」より。

***

河口俊彦、棋界一のライターである。イヤ、評論家と呼ぶべきであろうか。

将棋界には評論家はいないと言われている。故芹沢博文九段が、最後の評論家だったと言う人もいる。将棋はしょせん、指す人より書く人のほうが弱いのだから、評論はできないというのがその根拠だが、私はそう思わない。

手のことは、対局者の感想を聞けば良いのだし、それが万一間違っていても、取材をしないで書いたという時以外は、まず責められることはないからである。

それよりも、将棋界におけるスターであるプロ棋士達の、個性や感情を読者に伝えることができるかどうかが、書き手の差となって現れてくる。単なる手の解説を中心とした観戦記を超え、人物論、棋界論まで書けるようになれば、立派な将棋評論家と言って良いと思う。

河口の出世作は、月刊誌に長く続いている『対局日誌』である。無論、その前からライターとしての腕は高く評価されていたが、言い方を変えればライターから評論家へと変わっていったきっかけが、この『対局日誌』であったと思う。

『対局日誌』は、月に何日かの対局日を終局まで取材し、その日の将棋の模様はもちろんのこと、控室の棋士達の評判や悪口、対局者の心情までを描いたもので、それまでの将棋界にはなかった企画だけに、大いに評判を呼んだ。

というよりもそもそも、棋士に対してその内面や心情まで突っ込んだ文章は、ちょっと書けないような雰囲気が将棋界にあった。それを打破し、なおかつ『将棋ペンクラブ』まで作り、年間の優秀作品を表彰するところまで河口らが踏み込んだことにより、将棋界における観戦記及び各種の読み物が、飛躍的に面白くなったのは事実である。

各分野において、常に囲碁界に遅れをとっている将棋界が、圧倒的に大差をつけて誇れるのが、観戦記を含む文筆の世界であろう。

観戦記だけなら、ほとんど将棋界を知らない作家や、アマのライターでも素晴らしいものを書くことができる。しかし評論家となると、私は最低二つの条件が必要になってくると考えている。

それは、棋士に対していかに多くの時間を費やしたか、つまりいかにムダをしたかということと、将棋の手に対する感性、感動する能力である。その条件さえみたせば、私はアマチュアでも評論家になるのは可能であると思っている。

ムダといえば、河口の奨励会生活そのものが、ムダの固まりであった。昭和26年に6級で小堀九段門下となり、昭和41年に四段になるまでの16年弱の奨励会生活は、普通なら途中であきらめてやめていくのが当然の長さである。

この記録は、伊藤能四段の17年という新記録の前に敗れてしまい、「オレもたった一つだけ誇れる記録がなくなった」と冗談を言っていたが、逆にこのムダの長さが、文章の上での原動力となっているのは確かである。

(中略)

ムダと言えば、奨励会生活に限らず、河口はあまりにも多くのムダを重ねている。囲碁の腕は、アマの神奈川県代表になった程だし、ゴルフも連盟ではトップクラスである。

(中略)

また、夜のつき合いもかなり多い。と言っても河口は、酒がまったく飲めない体質なので、人と話をしたいがために、何軒もハシゴをすることになる。従って、外の人との交友もかなり広いし、酔った相手の本音を聞くことになる。これが評論家としての財産と言って良いだろう。

文章がうまいと言っても、しょせんは棋士であって、一流の作家のような語彙を駆使した文章を書く訳ではない。しかし大山・升田を始め、見てきた棋士の数、本音を聞いた回数においては、棋界随一であろう。そこに氏の文章が、人を感動させる要因がある。

*****

将棋ペンクラブを創設したのが河口俊彦七段と東公平さんだ。

きっかけを作ったのは団鬼六さん。将棋ジャーナルで優秀観戦記に賞金を出す企画があり、受賞したのが河口七段と東さんだった。河口七段と東さんは、その受賞賞金を基金として将棋ペンクラブ大賞を始めることにしたのだった。

そして、創設以前から全面サポートしたのが山口瞳さん。自ら最終選考委員となったりスポンサー(サントリー)を確保したり、多方面での支援があった。