15年前の将棋ペンクラブ

私が将棋ペンクラブに入ったのは1997年の1月のこと。将棋ペンクラブへ入って半年目くらいに、もしかしたら、将棋ペンクラブはお祓いをしなければならないのではと思う時期があった。

近代将棋1995年12月号、湯川博士さん「好きこそものの」より。

(太字が湯川博士さんの文章)

今回一番気をもんだのは、最終選考委員の変動だった。

第1回は7年前になるが、山口瞳さんを中心に色川武大さん、中原誠名人と豪華な顔ぶれでスタートした。色川さんのお宅には選考委員のお願いに上がった思い出がある。このときは「僕の柄ではない」と辞退されたのを、新人発掘という切り札でなんとか拝み倒した。心優しい色川さんは、新人のことばに弱いだろうという読みである。その色川さんも亡くなり、そのあと三浦哲郎さんが参加されたがご病気で辞退された。

ピンチのたびに司会役の高橋呉郎さんに無理遣り選考委員になっていただき、急場をしのいできた。なにしろほとんど無報酬のボランティアである上に、責任だけ重いというたいへんな仕事だ。やり手は少ないのである。

そんな選考を支えていたのは山口さんの情熱だった。昔から将棋界の文筆の地位が低いことに心を痛め、なんとかいい方向へ持っていきたいと願っていた。賞金のスポンサー(サントリー)も山口さんのお顔でいただいたし、選考も熱意あるものだった。

(中略)

さて今回の舞台裏の一幕は…。

まず昨年の暮れに、もう一人作家の委員をぜひとも作らなくてはということで幹事が行動開始。何人かの候補を(勝手に)検討し(迷惑にも)白羽の矢を立てたのが、作家の江國滋さんだった。大賞担当の大竹延さんが手紙と電話で口説き落として、見事にOKをいただいた。

これで来期は安心と思ったら…。

御大の山口さんが入院されたという情報。ビックリして事務局代表の井口昭夫さんが病院へ飛んで行ったが、面会謝絶でお会いできなかった。

そうこうしているうちに、全国から推薦作が上がってきて、それを整理し二次選考委員会へかける作業が進む。

(中略)

山口さんの様態も容易ならぬ感じであるし、我々もなんとか急場をしのぐ策をひねり出さなくてはならない。まず例によって高橋呉郎さんに無理を言って入っていただき、もう一人は元副会長の東公平さんを拝み倒すことになった。

東さんはこの会の創設者でもあるし、観戦記のお手本にしているライターもたくさんいるような方で、いつかはお願いするつもりでいた。急場と聞いて、気持ちよく引き受けていただき、やれやれ。

(中略)

かなり強引だったがメンバーは固まったと、ホッとしたのも束の間、山口さんの急逝、お葬式の二日後が選考会という慌しさだった。

選考会は無事済んだが、来期もこのままではいけない、もう一人委員を固めようということになった。幹事会でまたも候補を上げた結果、山口組の末弟子を自認されている常盤新平さんにお願いすることになった。

手紙と、脇からも親しい方にご助言していただく両面作戦で、なんとかご承諾頂いた。こういう作戦をやっていると両側から金を打って、どちらにも逃がさぬ必至をかけているような気分になる。

報酬もないのにあつかましく口説き落とす自分が、なんとも強引な奴に思えてくる。でもこの賞を続けることが、あとをまかされて運営する者の役目と言い聞かせ、進むしかない。

(以下略)

ところが、1995年から最終選考委員をお願いしていた江國滋さんが、1997年8月に逝去されてしまう(享年62歳)。

1995年8月の山口瞳さん(享年68歳)に続いて、2年間で二人の最終選考委員が亡くなったことになる。

もっと前には、1988年の第1回の最終選考委員だった色川武大(阿佐田哲也)さんが1989年に亡くなっている(享年60歳)。

将棋ペンクラブ大賞最終選考委員になっていただいた作家の方が、最終選考委員になった数年以内に亡くなることが続いたのだった。

既に引き受けられていた常盤新平さんも、多少は気にされていたかもしれない。

1999年から最終選考委員となった高田宏さんは、

「なんか、ジンクスがあるみたいだけど、僕はいつ亡くなっても大丈夫だから」

と笑いながら引き受けてくださった。

幸いにして、そのようなジンクスは無かったので、ホッとしている。

高田宏さんは二代目将棋ペンクラブ会長。(初代は河口俊彦七段)

私が最も尊敬する一人である。

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