”平成の長考男”と呼ばれた郷田真隆九段の面目躍如。
1992年の先崎学五段(当時)の著書「一葉の写真」より。
郷田真隆四段と函館に旅行に行ったとき、競馬場に行ったことがある。郷田は、競馬をやるのがはじめてだったようで、いろいろと競馬新聞の読み方を聞いてきた。ひと通り教えてやると、郷田は、「よし、絶対勝つぞ!」などと叫ぶと、それから六時間、食事をしながら、酒を飲みながら、道を歩きながら検討を続けた。酒場に行って、隣に女の子が座っているにもかかわらず競馬新聞を読みつづける。宿に帰って、寝ようとすると、いや、まだ納得がいかない。もう少し検討するという。僕は偏執狂じゃないかと思った。つぎの朝、起きると「よし必勝だ」という。新聞を見ると、一レースごとに、買い目がびっしりと書かれている。そして、その結果どうなったかというと、やはり一念天に通ず、彼は大勝利をおさめるのである。驚いた。呆れた。いやはやまったくたいしたものである。
羽生善治棋王と一緒に高知競馬に行ったこともあった。羽生もはじめてだったようである。僕は最初に馬券を買ったのが中学一年生のときだったので、当時のことはあまり憶えていず、競馬童貞の気持ちはわからないのだが、あの広々とした芝生を見ると、だれしも胸ときめくものらしい。いや、自分を見失う可能性だってある。彼の収入を考えると、下手をすれば高知競馬クラスではオッズを動かしてしまうことがないとはかぎらない。そこで心配になり、
「どうせこんなものは勝てないんだからあんまり賭けるなよ」
などという、いらぬお節介をやいた。これが失敗だった。羽生は、郷田とは逆に、データをまったく見ずに、馬の名前やインスピレーションだけで馬券を買う「お嬢さま買い」をするのだが、その買い目がよく的中するのである。僕のほうは、馬体重を必死にメモして、パドックを見て、オッズと首っ引きで買い目を決めるのだが、まるで当たらない。羽生は馬体重についてまったく興味をもたず、僕がパドックを見ている間、ビールを飲み、配当なんかどうでもいいやといいながらビシビシ当てるのだ。ヤンナッチャウのである。
ビギナーズラックというよりも、なにか、もって生まれた運の強さというのも強く感じた。
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日本経済新聞の1995年の将棋王国には、次のように書かれている。
将棋界には「羽生なら1分、郷田なら30秒」という言葉がある。終盤の詰むか、詰まないか、という勝敗が分かれる最も重要な局面。6冠王の羽生善治王座ならば難しくても1分間でだいたい読み切ってしまう。これが郷田ならばもっと速い、という意味である。
どちらにしてもすごいことだ。
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「一葉の写真」の”おもな登場人物紹介”で、郷田六段(文庫版出版時の段位)は次のように書かれている。
先崎以上にものぐさな男でアパートを借りて、一年間電話をひかなかった。とにかく真面目な男。
携帯電話が一般的ではなかった時代の話だ。
「将棋も性格も真っ直ぐ」と、先崎五段は親友である郷田四段を評している。
郷田九段の「将棋も性格も真っ直ぐ」は、20年近く経った今になってもまったく変わっていないと思う。