将棋世界1993年8月号、炬口勝弘さんの「素顔を拝見 剱持松二八段」より。
十九年目の昇段
早くから八段の器と謳われ、昭和48年に順調に七段になりながら、それから十九年。今年の一月中旬、七段以来、190勝目を挙げて、やっと八段昇段を決めた。
そのお祝いの会が銀座のサッポロライオンで催されたのが四月五日。筆者は当日、出席できなかったが、来会者は150人を超え(うち棋士仲間50人余)、立錐の余地もないほどの大盛会だったと聞く。
ちなみに読売新聞の盤側欄によれば、『”ようやく引退に間に合った。これも皆さまのおかげです”最後の一言は棋士が多かっただけに大受けだった』とある。
今回、インタビューで高田馬場の将棋教室を訪ねたら、開口一番、飛び出したのも、晴れの祝賀会のことだった。それも、お客様に駒落ち将棋を指導しながら、当夜のスナップ写真のアルバムをめくってはこれは誰、どういう人と熱弁を振るうのであった。なんだか、こっちはお客さんに悪いような気がして尻こそばゆく落ち着かなかったが、先生は平然と喋りつづける。ちなみに教室は毎週水、金、土曜日と、第一、第三日曜日に開かれていて、この日はウイークデーの昼下がり。お客さんはたまたま一人。弟子の松本佳介三段(21)が、隣の和室で、パソコンに向かい、将棋の研究をしていた。
「ちょっと話しながらで悪いけどね、私、話しながらでも将棋はピシッとやりますから。こういうときは、私強いんですよ(笑)。こういうときの方が強い。そうそう連盟の対局のときだって、話しながらのときは強いんですよ。真剣になってくると震えてくるんですが」
パチリと指してはその合い間に、来会者の説明をしてくれたが、すごいメンバーばかりだったのに驚かされた。
財界のお歴々。テレビ将棋のスポンサーだった大企業の元社長や会長。そして、七段としての1勝目をあげた当時の連盟会長加藤治郎名誉九段をはじめ二上現会長、タイトルホルダー、新鋭棋士まで、関東のそうそうたる棋士が勢揃いしている。
「米長さんも挨拶で言いましたよ。升田、大山に好かれた男。こんな棋士は剱持さん以外にいない!要するに、升田さんに好かれて、大山さんに好かれるって絶対ない。この二人に好かれたのはホントに珍しいっていうか、不思議な人だって。会の後、また米ちゃんに会ったとき、あれも剱持先生の人徳です、って彼も言うわけです。ホントにね、あれだけメンバー集めるったら、まず集まらないですよ。ほとんどの人が来てるわけですよ。あれ来てないのはトップクラスじゃないですからね(笑)。二上会長も挨拶で、私のときはこんなに棋士が来てくれるかどうかなんてね。
名人戦の始まる一週間前です。米長さん、気合が凄いときだったんですよ。ところが椿事が起こってね。うちの教室のと、稽古先の若いのとがね、十人ぐらいで米長君を囲んでトグロを巻いてると思ったら、米長名人バンザイ!ってやるんですよ。中原名人もいるのにさ。升酒持ってね。中原名人がいなけりゃいいけどね、私はビックリして飛んで行ったですよ。なんてこと言ってくれるんだ!って。米長さんの顔みたら、さすがにバツ悪そうだったですけどね。あれはちょっとマズかったですよ。まあそれだけ米ちゃん気合いが入ってたというわけでしょうけどね」
二人は翌日、竜王戦を戦い、米長がな中原得意の5九金戦法を逆に用いたが敗れた。さらにその週、全日プロで新鋭深浦四段にも敗れている。ただし、名人戦は、ご承知の通り、4-0で中原を破り、悲願の名人を奪取した。
力道山と升田幸三と
昭和九年七月二十一日、東京都に生まれたが、育ったのは母親の里がある茨城県。石岡市から入ったところ、現在、自衛隊百里基地のある小川町であった。荒巻三之八段に入門したきっかけは、「田舎へ教えに来てた。当時はもう食うにも困って、だから、ウチの村へ来ちゃ、将棋やっちゃ、米貰って帰ったりしてたもんで」
昭和三十一年四段。前年には、賀集、芹沢、関屋、大村、大原の五人が四段になっていた。「これじゃ堪らないってんで、総会で予 備クラス作られたんです。そのために私は三回以上損してる。なければ、もっと早く抜けられたんですよ。まあ九勝一敗でポンと抜けたけどね。その予備クラスの第一期の卒業生が私なんです」
順位戦は、昭和三十二年度の第十二期から参加している。同期は佐藤大五郎(21)。剱持は二十三歳だった。特筆すべきは、この期、B1の加藤一二三七段が、四年連続の昇級昇段の快記録で、十八歳という史上最年少の若さで、A級八段入りしたこと。もう遠い昔のことのように思える。剱持八段も、今では五本の指に入る最古参組の棋士。
(中略)
五段になったのが昭和三十七年と、五年かかっているが、翌三十八年にはB2六段と、連続昇級昇段している。四段の最後の年、三十六年には、東西対抗勝継戦で六人抜き(優勝)しているから、この頃が、最も脂が乗っていた時期といえるかもしれない。
「力道山とね、将棋世界にね、載ったことあるんですよ。私と写真撮ってね。三段の免状出したとき、グラビアですよ。私が二十二ですからね、当時。今、五十九だから、三十六年ぐらい前。十一月号かな、多分、十一月。写真バーンと載ってます。四段になって、先妻と一緒になったときでした」
力道山といえば時代のヒーローだった。そして若き剱持八段も光り輝いていた。それで、本誌のバックナンバーをひもといたが、三十二、三年のには載っていない。実は五年の違いで、昭和三十七年だった。あえてデテールにこだわるのは、人間の記憶のあいまいさ、いい加減さを検証しておきたかったからに外ならない。記憶力抜群とされる棋士でさえそうなのである。
四段C2入りの年でなく、五段C1入りの年だった。二十八歳のとき。ただし十一月号というのだけはドンピシャだった。
”棋士とファン”という一頁の連載グラビアで、せっかくだから以下に引用させていただく。
―今年C1入りした新鋭剣持松寿五段はプロレス好き。またプロレスの王者力道山さんも将棋ファンということで三菱電機の大久保謙氏の紹介で、プロレスを見たり、将棋を指したりとなった仲。このほど力道山さんに三段が贈られた。テレビ将棋にゲストとして出ると大ハリキリ。右から力道山さん、剣持五段、大久保謙氏。
「凄い話があるんですよ。あるとき升田幸三の写真を力道山に見せたら、こいつはバケモンだ!って言ってね。あっそうだ、力道山から聞いた話だけど、東急のある人の結婚式に升田さんが行ってね、女の方が偉い立場にいて、旦那の方に力がない、それでみんな来賓が新婦ばかり褒めるわけです。そのときに。升田さんがね、東急の五島、お前はなんだとね、始まっちゃったんですよ。世話になる女の方を褒めるとは何事だ!当時の超一流の政・財界の大物連中、もうみんなびっくりしちゃってね。力道山も、オレなんか口も利けないような人をコケにして凄かった。それまでガヤガヤ騒いでたのが、シーンとなったって。そのときに、三菱電機の社長が、君、いい男だ、凄い奴だ、私も将棋習いたいということになって、私が先生で行くようになったわけです。升田さんのところには、当時私が出入りしてましたんで、まだ二十歳か二十一ぐらいでしたかね。升田さんは、今のと一緒になったときの仲人なんですよ」
指導将棋が終わると、丁寧な解説が始まった。『一気に希望段位まで。責任指導』という教室のキャッチフレーズ通りで、最初にながら指導を心配したのが、まったくの杞憂だったのを知ってほっとした。さすがプロだと思った。
感想戦が終わると、今度は弟子の松本三段(他に弟子は弟の秀介初段、野島崇広4級がいる)が平手で稽古を変わった。
縁の下の力持ち
剱持八段は、連盟の手合係を長く務め、その後、昭和五十年から五十一年にかけては、将棋会館建設委員会で、募金事業にあたった。しかし、その前に、テレビ東京の早指し戦創設にも大きな功績をしている。
「私は育ての親みたいなもんです。競艇と大倉屋という不動産屋を関屋君(喜代作六段)が最初にスポンサーとして決めたんだけど、それだけだと要するにイメージがちょっとということでね、テレビ局も困るわけです。難航してたんですよそれで私が一流企業の三菱電機の大久保さんを説得して、直談判でね、決まった
のはテレビ始まる一週間前でしたよ。三菱が入ってくれたんで、はじめて12ch(東京12チャンネル=現在のテレビ東京)の将棋番組ができたんです。私は、その後で12chの重役が接待してくれましてね、タキロン(やはりスポンサー)の会長と、料理屋でご馳走になりましたよ。とにかく、私のお弟子さんが、随分テレビのスポンサーになってくれて、一時は、あそこの12chの船舶振興会以外のスポンサー全部、私が揃えたんです。三菱電機と、それからタキロン、呉羽化学。僕は九社会っていうね、会があるんですよ。タキロンから始まりまして、どんどん増えて、その中にサッポロが入ってるんです。みんな教えに行ってたんです。今度のパーティーにはみんな来てくれましたがね。
とにかく、三菱電機のお蔭でね、今のテレビ将棋があるというようなもんですよ、うん。私はね、縁の下の力持ちをやりすぎちゃったんですよ。うん。だから将棋これだけ勝てなくなって、あれやってなきゃあね、私だってもっと上へ行ってたんですけどね、ま、これも運命でね。
昔、西武デパートで将棋まつりやってたでしょう。あれも私がやったんです。当時は東急一本だったんですが、おかしいんじゃないか、他のデパートでやってもいいんじゃないかという話で、私が西武をまとめたんです。池袋の。東急の権限がすごかったんです。私が作って、それで連盟にあげたんですよ。ほんとは自分でやってりゃ、私のもんなんです。うん。でも三年ぐらいで終わっちゃった」
会館建設でも口八丁手八丁、敏腕を振るった。
「当時、私も連盟の事務員やってた。手合と営業の方やってたんですけど、それで会館の方やってくれないかということで、会館部っていうの作ったんですよ。建設委員のメンバーには総理大臣の福田赴夫さんも名を連ねているんだけど、千日手模様になって、一年ぐらい金が集まんなかったんですよ。当時の寄附行為っていうのはね、銀行と鉄鋼と電力の三つの団体がね、OKしないとなかなか寄附が集まんなかったんですよ。それで大山さんが、なんとか三菱電機をね、説得してくれないかっていう話でね、困るからってんで。それで名人を連れて行ったわけです。
そしたら三菱重工と電機で七百万、金が入ったわけですよ。暮れにね。そしたら正月明けにはどんどん金が集まっちゃってね、五月にはね、七千万ぐらい余っちゃったんですよ、あれだけ金が集まんなかったのにね。
だから大山さんは私には頭はね、上んないんですよ。大山さん立ててるけど、内助の功は私ですよ。升田幸三さんが、もともと三菱系列の先生だったんですが、あれは剱持がやったんで大山名人じゃないって言うんですよ。それで、升田さんと大山さんが喧嘩になっちゃったこともあるんですよ。大山さん、升田さんのウチへ乗り込んで行ったんですよ。こんなこと喋るとまずいかな」
もはや二人ともこの世になく、裏をとるのも不可能だが、とにかく会館建設に奔走したことは否めない。
「先生、スミマセン。終わりました」
次の間で対局していた生徒さんから声が掛かった。
「あっ、どうもどうも。負けちゃった?」
「でも結構いい将棋でしたよ」
と青年は答えた。
「うん。だんだん強くなる、あなたは。あのね、将棋に対する情熱がいいから。うん。まあ、あんまり負けるの気にしないで、もう少しやれば、必ずね、定跡覚えたら勝てるようになるから。だから定跡こつこつ覚えなさいよ。力は、力は大丈夫、うん」
幸せ?
「あれっ、どこまで話したかな」
青年が帰った後、先生は教室の厳しさを語り始めた。
「華やかなりし頃もあったけど、ま、ここへ来てからじゃちょっとみじめな話になっちゃうからね。やっぱりこのバブルでお客さん減りましたよ。薄利多売ですからね、人数が減るとね。私ほど安くやってるのいないですよ。今のままだと将棋界つぶれちゃう。今の状態、勝負勝負でしょう。みんな研究してるからね。きのうもね、中原名人と話したんだけど、あれだけ名人になった人でもね、どっかへ行くとかサービスする気とかにならないって。一日一日が勝負で必死に勉強しなきゃ駄目だと。あの辺がそう言うんですからね。そんなに勝負だけきつく争ってもね、ファンが減っていけば、収入減るんですよ。だから、トーナメントプロはトーナメントプロ、レッスンブロはレッスンプ、分かれてね、それで将棋界をもり立てなきゃ」
もう十年も前になるが、かつて教室があった新宿副都心のマンションに、佐藤大五郎九段に連れられて訪ねたことがある。16坪。52.48ヘーベーの2DKだった。夫人や親戚の反対を押し切り借金して三千万で購入したということだったが、それから何年かして会ったときには、「二億以下じゃ売らない」とすごい鼻息だった。驚き、そしてうらやましく思ったものだ。変哲もないマンションだが、都庁(予定地ー当時)の隣というロケーションがよかった。
「三千万で買ったやつがね、四年後には三億五千万になったんですよ。ただ売ると、儲けの85%が税制上税金で持っていかれますから、三千万もないんだよね。いくらも残んない(笑)。で、五年経つのを待ったわけ。一年待ったために、いくらになったと思います?八千万ですよ。この話は面白い話ですよ。だけど私はもう株のために億の借金をしちゃってたから、なんとしても返さなくっちゃいけない。でも役者なんですよ(得意気な顔をして言った)。私は、とにかく焦った顔一切しないで、とにかく二億四千万で売ったんだから。坪1500万で16坪、ピッタリでしょう(電卓を叩いて数字を見せてくれた)。神業なんですよ。売れなければ、もうメチャメチャになってたところです。四億ぐらいの株やってましたからね。一日の勝負がね、百万単位でしたよ。暴落で、一日に八百万やられたこともあります。まあ、そういう面白い話が、まだまだいっぱいあるんですけどね、キリキリするんですよ、対局してても。いや、私はね、あんまりお金欲しくないんですけどね」
マンションの売り上げで大儲けしたと思ったら、どうやら株では大損をしたらしい。さしもの強気でなる八段も、さすがにダメージが大きく、某棋士と飲みながら、ボロボロ涙を流したという噂も耳にしたことがある。
いずれにせよ、人間的な希有な棋士である。ゴルフもうまいが、歌もうまい。しかも、前夫人がママの店へ行って歌うのである。以下は田舎の同級生の談。
「私は将棋は指さないから分りませんが、ウチの店にきた、”おゆき”を歌ってる棋士、なんて名でしたか、彼も変わってるからな、と言って笑ってましたよ。とにかくヅケヅケ言う。大法螺を吹く。今回の祝賀会、田舎の同級生にも声を掛けたんだけど、敬遠するのが多くて。私みたいに、長く付き合った人は、その良さが分るんですがね。なんせ、同窓会でも、この中で千人斬りやったのは俺ぐらいだろうなんて威張ったりするもんだからね」
幸せな人だと思う。
去年の夏、大山十五世名人の通夜の日、たまたま駅から斎場まで一緒に歩いたものだったが、そのときの八段のセリフが、今でも奇妙に耳の奥に残っている。「大山さん、幸せだったのだろうか、そりゃ間違いなく歴史に残る巨人だけれど、人間としてね」
いろんな棋士がいて、将棋界は、やはり面白いなと思う。
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このブログには剱持松二九段の記事がいろいろとある。
それほど個性的で面白い棋士だったということになる。
この炬口勝弘さんの記事も、今までに出てきたエピソードなどの裏話が語られていて、やはり面白い。
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下の写真は、同じ記事に載っていた炬口勝弘さん撮影の写真。
二上達也九段が歌って、西村一義九段が手をたたいて、剱持松二八段(当時)がカウンターの中でマラカスを振る。
たまらなく貴重な写真だ。
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