将棋マガジン1986年2月号、読売新聞の山田史生さんの第24期十段戦〔米長邦雄十段-中原誠名人〕第5局観戦記「米長十段、防衛までにあと一勝!またまた夕食休憩前に終局」より。
仏法僧で有名な鳳来寺山ふもとの「雲竜荘」。対局場設営は中部「読売新聞社があたった。「静かな山あいの山村で、山菜料理や、しし鍋が名物」ということなので、こちらも「趣があっていいでしょう」と了解したのだが、国鉄の下車駅は豊橋から飯田線に乗って約1時間の本長篠。この近辺は戦国時代、織田・徳川連合軍と武田軍が激突した「長篠の合戦」の舞台になった所だった。この合戦は初めて大量に鉄砲を採用した織田軍に武田軍が惨敗、武田滅亡の最大原因となった戦いである。武田といえば甲州が本拠。山梨出身の米長にとって、武田惨敗の地は縁起が悪かろう、ちょっと場所の選定が不用意だったかな、との思いが私の胸をよぎったが、もうやむをえない。
(中略)
さて、前夜は立会人の大友昇八段、板谷進八段、観戦記の山本武雄八段(陣太鼓)、記録の阿部隆四段ら関係者で山菜料理。山モモ、栗、山ゴボウ、菊イモ、ユベシ、蜂の子、それにどくだみ、よもぎ、柿の葉の天ぷらなど、都会では口にしないものがふんだんに出た。
米長、中原とも「対局でなければ一生こなかった所だな」と山深い地での清遊に興味深げ。
(中略)
ここで昼食休憩。中原はうな丼、米長はとろろそばを食べたが、中原にとってはまずいうなぎであったろう。
再開直後、中原が大きなくしゃみをしたが、米長「ウヘー」と声を出し、大仰に驚いてみせる。もう張り詰めた緊張感はない。勝負の帰趨は両者にははっきりわかっているゆえの一幕である。
(以下略)
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約2000坪の敷地内に、本館をはじめ9棟の歴史ある建物が建っている。
大正末期に建てられたこの地方の名家・素封家の別邸を昭和25年に移築し、旅館として開業したのが雲竜荘の始まりだ。
食事メニューは、
- 口代わり(ぜんまい、わらび、松の実、沢蟹、またたび、あみがさゆず、きんかん甘露煮、いなご甘露煮)
- お造り〔鯉の洗い、刺身こんにゃく、岩茸〕
- 焼き物〔鮎の塩焼き、あまごの塩焼き、松茸の炭火焼き〕
- 箸休め〔山桃のワイン漬け〕
- そば〔なめこそば、やまかけ〕
- 冬瓜の印籠蒸し
- しし鍋
- 小鉢〔蜂の子、くちなしの花、つくしの佃煮、たにしの味噌和え、ノビルの酢味噌和え〕
- 天ぷら〔薬草など〕
- 胡麻豆腐
現在も豊橋から本長篠まで飯田線で約1時間(雲竜荘までは本長篠駅からバスで10分)かかるが、行ってみたくなるような旅館だ。
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「中原が大きなくしゃみをしたが、米長「ウヘー」と声を出し、大仰に驚いてみせる。もう張り詰めた緊張感はない。勝負の帰趨は両者にははっきりわかっているゆえの一幕である」
この対局は2日目の昼食休憩後、2時間くらいで終局している。なるほど、勝負の帰趨がお互いにわかっているからこその「ウヘー」。
もちろん、勝勢な側が「ウヘー」と声を出すから洒落になるのであり、逆の場合はあまり洒落にならなくなる。