ビフテキと粥

昭和10年(1935年)の第1期名人戦特別リーグ開幕局1日目の昼食の話、

近代将棋2005年8月号、鈴木宏彦さんの「将棋指し なくて七癖」より。

(太字が鈴木宏彦さんの文章)

古い新聞観戦記を読んでいると対局者の食事の話がよく出てくる。

昭和10年6月16、17日。第1期名人戦特別リーグ開幕局は金子金五郎八段と花田長太郎八段の間で指された。持ち時間はなんと13時間! これを2日間で指すのだから、対局時間の長さは現在の名人戦の比ではない。両者が目いっぱい持ち時間を使うと、終局時刻は3日目の明け方になる計算だ。

この金子-花田戦では花田が1日目の昼に「ビフテキと粥」という変な組み合わせの食事を注文し、それに金子もならうシーンが出てくる。

蒲柳の質(ほりゅうの しつ…か弱い体質、体質が弱いこと。蒲柳は川柳の異称。川柳の葉は秋が来ると真っ先に散るところから)といわれた花田八段は対局中あまり食事を取らず、粥ですませることが多かったらしい。が、この名人戦特別リーグは初めての実力名人を決める大勝負。2日間の長丁場に耐えうるスタミナをつけるため、いつもの粥にビフテキを追加したようだ。ちなみに、この勝負は3日目午前4時22分、144手で花田が勝っている。

ビフテキと粥という、目的と用途が全く異なる食べ物の取り合わせだが、事情を知ると、命がけの悲壮な決断であったことがわかる。

第1期名人戦特別リーグは昭和12年まで行われ、1位が木村義雄八段、2位が花田長太郎八段という結果になり、木村義雄八段が第1期名人に就いた。

昭和12年12月5、6日に行われた最後の木村-花田戦では、花田八段の体調はさらに悪化し、食事は1日2食、それも粥と梅干だけだったという。

ところで、阪田三吉八段と木村義雄八段の「南禅寺の決戦」は昭和12年2月に、阪田三吉八段と花田長太郎八段の天龍寺での対局は昭和12年3月に行われている。木村義雄八段、花田長太郎八段ともに阪田三吉八段には絶対に負けられない一戦だったことになる。

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ちなみに、Wikipediaには次の記述がある。

『阪田三吉は 洋食を好んだが、特に牛肉が好きで食堂でも牛肉料理をよく注文した。「牛肉食べな丈夫で賢ウなられへん。」というのが持論であった』

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「ビフテキと粥」の昭和10年前後の飲食物の値段は次の通り。

昭和5、6年当時のスエヒロのメニュー

テンダーロインステーキ 1円

テンダーロインステーキ(特大) 1円50銭

スープ 40銭

ハンバーグ 60銭

カレーライス 40銭 

チキンカツ 60銭

エッググラタン 50銭

オムレツ 40銭

ローストビーフ 60銭

サンドイッチ 50銭 

コーヒー 20銭

プリン 20銭

ゼリー 20銭

アイスクリーム 20銭 

現在の貨幣価値にするには2000倍から2500倍すれば良いのかもしれない(コーヒーが500円、テンダーロインステーキが2500円)。

昭和12年の不二家のメニュー

コーヒー15銭

パフェー40銭、

アイスクリームサンデー30銭、

コカコーラ20銭

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「ビフテキ」という言葉はレトロ語になっているが、これは日本人がビーフステーキを縮めたものではなく、フランス語の bifteck (ビフテック) のなまったものだといわれている。要はフランス人が縮めたことになる。→ビフテキの名前の由来は?

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本格的に牛肉が食べられ始めたのは、明治の文明開化以降であり、牛鍋屋が流行した。

ところで、「牛鍋」と「すき焼き」の違いが以前からはっきりしなかったのだが、昭和6年の読売新聞に明快な答えが載っていたことを知った。→YOMIURI ONLINE 明治・大正・昭和

素早く炒めて砂糖と醤油で味付けするのが「すき焼き」、最初から割下(味噌味もあり)を入れて肉と野菜を煮込むのが「牛鍋」ということらしい。

「すき焼き」は手早くせっかちに、「牛鍋」は悠長に煮込む。

「牛鍋の生命は半熟の葱を食べる処にあります」と、葱の嫌いな人が見たら倒れてしまいそうなことも書かれている。