大山十五世名人と相性の悪かった対局場

大山康晴十五世名人には、タイトル戦での勝敗的に非常に相性の悪い対局場があった。

東京の赤坂にあった「比良野」。

1955年度の王将戦で、大山名人は、升田幸三九段に3連敗し、第4局の香落ち(下手)で負け、第5局の平手戦にも敗れている。

その時の5局すべての対局場が「比良野」だった。

例年、「比良野」は王将戦の第1局で使われていた対局場だったようなので、大山名人はそれ以外の年の第1局も敗れていたのだろう。

東公平さんの「升田幸三物語」より。

(太字が東公平さんの文章)

大山も升田と前後して東京に家を持っていたので、この期の王将戦は珍しいことに全局「比良野」で指した。

後年、大山が講演によく使った話。

「対局場にも相性というのがあるらしく、わたしは、ある旅館で対局して一番も勝ったことがなかったんですよ。ここはダメです、とも言えませんし(笑い)、どうしようかと思っとったら、ありがたいことにその旅館が廃業してくれまして(爆笑)」

これが「比良野」のことだ。

升田にも、相性のよくない対局場はあった。

「どうもあそこでやるとポカが出る。おかしいな、と思うとったら原因がわかりましてね。大山君の好きな女性がおった(笑い)」

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「比良野」で行われた1955年度王将戦第1局では、升田幸三九段の有名な新手が出た。

photo (3)

後手の大山康晴王将の△5四角棒銀封じに対する、先手の升田幸三九段の新手▲3八角。

升田九段は「この手を試す相手は、大山君に限る」と心に決め、じっと温めていたという。

倉島竹二郎氏の観戦記によれば、全局東京で行われるのは、病後の升田の健康を配慮したからだそうである。そして、升田▲3八角のときの見出しは、

「体を張った新手」

とある。

大山は図に直面して47分考え、△2二銀と引いて2筋の歩の交換を許した。現代の定跡で最善手とされる△4四歩突きは、五十嵐豊一九段の創案だったと記憶する。