豊川孝弘四段(当時)の夢

将棋世界1992年1月号、奥山紅樹さんの「棋士に関する12章 『夢』」より。

 棋士にとって、

 「最高にして、かつ最大の夢」

は、観戦記者の見るところ何と言っても名人になることだろう。

 名誉・収入・実力の頂点に立つ。総大将われ一人。寄せくるライバルを一蹴また一蹴。ガハハハと哄笑しつつ、「ああ名人位というものにしばられず、毎日をのんびりと過ごしたいなァ・・・」と憎いつぶやき。

(中略)

 まず、ぴちぴち跳ねる捕れ立ての新四段に、名人位への夢をたずねた。1991年秋にデビューの豊川孝弘(四段、24歳)は語る。

 「奨励会に入ったころ、記録用紙に『名人・豊川孝弘』とたわむれに記入したことがありましたねえ・・・ぼくは二段時代が4年間と長かった。東京・東中野のアパートで、ティッシュペーパーの箱に、サインペンで『名人・豊川』と書き、しばらく眺め、自分を励ましたものです」

 二段のころ。ティッシュペーパーの箱に。目先だけを見るのじゃない、夢は名人だぞ、と自分を励まして。ジーンとくる話だなあ。すると、晴れて新四段のスタートを切ったいまはますます夢実現に近づいている?

 「いえ、現在の夢は、森と湖のある空気の良いところにでっかい家を建て、ペットといっしょにクルーザーに乗ること・・・」

 大きな家。ペット。クルーザー。なにやら夢がせせこましいじゃないの。もっともこれからは、若者が邸宅を持つなど、億単位のお金が必要。汗みずくになって働いて、2世代ローンでようやく手に入るかどうか・・・となれば、せせこましいとも笑っていられないか。

 「奨励会員のころ、東京都内のアパートをてんてんとしました・・・高円寺、荒川、新小岩、東中野、北新宿、神田川と四畳半住まいで。一度だけ部屋を見に来た母親が『まるで豚小屋だねえ・・・』と。風呂のついた一軒家に住みたいなあと、思い続けてきましたから」

 女手一つで真黒になって働き、三人兄妹を育ててくれた母親に、のんびり風呂に入ってもらい親孝行をしたい・・・と、豊川新四段は述懐する。泣かせる話です。

 で、名人の夢はどうなった?

 「盤上のことは夢じゃない、目標です。A級入り、タイトル奪取・・・すべて目標です。将棋のことは夢にしたくない・・・しかし現実のぼくは努力、技術、人間の完成度、すべてに未熟です」

 「しいて盤上の夢を言えば、オニヅヨ(鬼強)になりたい・・・年間全勝、負けなしのオニヅヨに。名人だの七冠だのはそのあとからついてくる。将棋ファンが感動するような将棋を指したい、オニヅヨの将棋を指したい。これが夢です」

 四段になったからといって喜んではいられない。こんなに弱い将棋じゃ話にもならないと、自分に憤然としたような口調であった。

 名人位は夢か。いや実現可能な目標か。若い棋士が目標だと考える、そこに「夢」がある。

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豊川孝弘七段の新四段時代の夢。

豊川七段の奨励会の頃の話にはジーンとくるものが多い。

豊川孝弘四段(当時)「人に情に燃えました」

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オニヅヨ(鬼強)は豊川四段(当時)の造語と思われるが、この頃から「マンモス」、「渋い、渋谷の将棋指し」、「ここ数手が勝負所の所ジョージです」、「力を溜めたコブシのきいた、都はるみな一着です」、「序盤戦の山場です。やまんばです」、「これは先手がコマネチですね」などの萌芽が現れていたと考えることができそうだ。

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