将棋世界1997年9月号、先崎学六段(当時)の「先崎学の気楽にいこう」より。
大阪で偶然に、村山-丸山の順位戦を観る機会に恵まれた。
村山聖は、王将リーグで羽生と戦った頃の村山に、あるいは終盤は村山に訊けといわれた頃の村山に戻れるかというのが、最近の僕の関心事の一つだった。そのためには、まず充分な休養が大事であると考えられた。村山君は、元々体は弱いのだが、最近は特に悪化して、6月の中旬に手術をした。8時間半にも及んだ、生命も危ぶまれたほどの大手術だった。
当然、半年なり一年なり休場して、体力の恢復にあてる。これが常識である。誰しもがそう思った。
だが彼は順位戦を指すといいはった。噂では、入院中の棋譜が手に入らないか、との打診があったときく。身内、医者は正気の沙汰ではないと止めた。この常識以前の正論を彼はきかなかった。
緒戦の中村戦を指すときいたとき、書きにくいことを書いてしまえば、彼は死ぬ気だな、と思った。将棋盤の前で、死んでも悔いはないんだろうなと思った。8時間半の手術をしようという人間が、深夜に及ぶ順位戦を指すのは、生理学上無理があることは本人が一番よく知っているだろう。
村山君は中村さんに快勝した。矢倉のお手本ともいえる攻めが決まった。丸山戦は術後の初戦である。
順位戦は、彼にとって、特別な棋戦である。よく、医者に止められている酒を飲んで酔っ払ったとき「はやく将棋をやめたい」ということがあった。この言葉の上には「名人になって」という冠が隠されている。名人になることだけが彼の望みであり夢なのである。
一年、いや半年でも休めば、名人になるのが一年遅れる。普通の人にとってはたかが一年でも、小学生の頃から正月の度に、来年の正月まで生きられますようにと祈った彼にとっては絶望的な長さだろう。
広い部屋に対局は一局だけだった。控の間には看護婦さんが、万が一の時のために待機していた。
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ここから先は、先崎学六段(当時)の文章と、将棋世界1998年10月号の62頁「村山聖渾身の譜 第56期B級1組順位戦 七段 丸山忠久 対 八段 村山聖」の解説をもとに丸山-村山戦を振り返ってみたい。
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△5四銀(1図)=村山手術後の第一戦。丸山得意の角換わり腰掛銀を受けて立つ。
1図以下の指し手
▲5六銀△6五歩▲7九玉△5二金▲5八金△4一玉▲3六歩△3一玉▲2五歩△3三銀▲3七桂△6四角▲4七金△4四歩▲6八飛(2図)
▲6八飛(2図)=先手番とあって丸山は積極的に攻勢をとる。
2図以下の指し手
△7四歩▲6六歩△同歩▲同銀△6二飛▲7七桂△2二玉▲6九玉△9五歩▲6五歩△7三角▲9五歩△8二飛▲5八玉△9六歩▲6九飛△8六歩▲同歩△同飛▲8七歩△8二飛▲4八玉(3図)
▲4八玉(3図)=戦場から遠のく玉の移動だが、前の動きも村山のうまい応接で戦果はなく”つまらない展開”(丸山)に。
3図以下の指し手
△9五香▲9八歩△6三金▲6四歩(4図)
▲6四歩(4図)=先手攻撃再開。
4図以下の指し手
△同金▲7一角△5二飛▲6五桂△6八歩(5図)
△6八歩(5図)=以下△5五桂までが適切な反撃で、後手も崩れない。
5図以下の指し手
▲同飛△6五金▲同銀直△6七歩▲同飛△5五桂▲6九飛△4七桂成▲同銀△4五歩(6図)
△4五歩(6図)=先手陣を薄くして急所の歩突き。激しい玉頭戦に。
(先崎六段)将棋の内容は村山君が序盤から積極的に指し回して圧倒した。まったく病み上がりの人間の指す将棋とは思えなかった。いよいよあとは寄せるだけという局面を迎えたのは深夜の十二時だった。ここまで村山君には一手の悪手もなかった。
6図以下の指し手
▲6四銀△4六歩▲同銀△5一飛▲7三銀不成△7一飛▲6二銀成△4一飛▲4五歩△4七歩▲同玉△4四歩▲5六金△4五歩▲同桂△4四銀▲5二角△4二飛▲4三歩(7図)
(先崎六段)寄せの入り口で、一手、村山君がぬるい手を指した。守りの銀を攻めに使ったために一挙に自陣が危うくなった。局面は混沌として、粘り強さが身上の丸山君のペースかと思われた。
7図以下の指し手
△5二飛▲同成銀△4三銀▲5三成銀△同銀▲同桂成△2六角▲4八歩△5三角▲2四歩△6八歩▲同金△6七歩▲7八金△2七銀▲2三歩成△同金▲2四歩△同金▲5五桂△3二銀▲5八玉△3六銀成▲4三銀△4二歩▲3二銀成△同玉▲6七飛△8九角▲8八飛(8図)
▲8八飛(8図)=悪手。▲6一飛成として▲3一飛をねらう一手だった。本譜は飛車を手放したため戦力低下となった。
(先崎六段)時刻は一時を過ぎた。丸山君も簡単な勝ちを逃した。その代わり、妙な自陣飛車がでて、もうなんだか分からない。
8図以下の指し手
△4六成銀▲8九飛△5六成銀▲6五角△2二玉▲5六角△4六金▲2九飛△5六金▲同歩△3五角▲2三歩△同玉▲6三飛成△5三歩▲6七玉△6五歩▲同竜△7三桂▲7四竜△6六歩(9図)
△6六歩(9図)=△5四桂の方が手堅い。
(先崎六段)一時二十分。やっとはっきり村山勝ちになった。村山玉も危ないが、絶好の攻防の桂がある。
桂を打てばお終いだった。村山君は一分将棋のなか詰ましにいった。瞬間、あっ危ないなと思った。本能で打てそうな桂を打たなかったのが嫌な予感を呼んだのである。
9図以下の指し手
▲7七玉△8五銀▲2四飛△同玉▲2五歩△1三玉▲2四銀△同角▲2三金△同玉▲2四歩△同玉▲2五歩△同玉(10図)
△2五同玉(10図)=痛恨の失着。△1三玉ならば詰まず、後手勝ちだった。
(先崎六段)丸山君はするりと玉をかわした。奇跡的に詰まない。彼得意の形だ。もう桂は打てない。村山君は仕方なく必至をかけた。
今度は村山玉が詰むか詰まないか。モニター画面で一所懸命に読んだが、さっぱり分からない。難解極まりなくどの筋も詰みそうであり、また詰まなさそうである。
正しくは詰まなかったそうである。ただし、これは次の日、若手数人でさんざんつついた結論で、一分将棋の実戦には影響がない結論である。
10図以下の指し手
▲3六銀△同玉▲3四竜△3五歩▲4七角△4六玉▲3七金△同玉▲3五竜まで、173手で丸山七段の勝ち(投了図)
(先崎六段)最後は三十三手詰め、村山君にはツキがなかった。終了は一時四十三分。
感想戦は一言もなし。村山君の顔は見るに忍びなかった。
いいものを見た、と思った。無神論者の僕だが、あの状態で、あれだけの将棋を指す奴を、将棋の神様が見捨てる訳がない。本心からそう思えてならなかった。
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村山聖九段の壮絶な対局として伝説的となっている一局。
村山聖八段(当時)が膀胱を摘出する手術を受けたのが1997年6月16日、この対局が行われたのが7月14日のことだった。
この日のことは、弟弟子の増田裕司四段(当時)、故・池崎和記さんも書いている。
→増田裕司四段(当時)「この日は師匠から、村山さんが心配なので終わるまで待機している様に言われていた」