将棋世界1982年2月号、能智映さんの「棋士の楽しみ」より。
系図が少々ややこしいが、その二上の師の渡辺東一名誉会長は芹沢の師匠の高柳敏夫八段の仲人で、高柳夫人の八重子さんは、渡辺の兄弟子の故・金易二郎名誉九段のお嬢さん、その上に渡辺家と高柳家は歩いて2分ほどの距離しかない。だから、両家は親戚以上の付き合いだ。
だが、その渡辺と高柳が碁盤をはさんで、どなり合ったことがあるという。見ていた人が悪かった。ほかでもない、スピーカーの芹沢だ。
「二人ともいい年をしてね」と分別くさい前口上がついてからの話だ。
その碁は高柳の方が悪かった。江戸っ子で短気な高柳は、もうカァーッとなっていた。渡辺だって勝ち碁を前に気がせいていたらしい。「これで決まり!」と力強く打った石が力余ってポンととんだ。素人の碁にはよくあることだ。先輩の渡辺は、普段の調子で「おい、取ってくれ!」と手を差し出した。
ところが、ただでも気の短い高柳は、見境なく、思わず余計なことを口走ってしまった。それも江戸弁だからきつく聞こえる。
「てめえでとばしたんだから、てめえが取ればいいだろ!」
むろん、ケンカにはならなかったが、「二人ともいい年して、気まずい思いをしたよ」と芹沢は振り返るのだ。
これは短気な高柳がミソをつけた話だが、その相手、おっとりと見える渡辺も、これに似たしくじりをおかしている。
芹沢がまだ二段だったというから古い話だ。渡辺が誰かと碁を打っていた。相手が誰かと言いたがらないところをみると、もしや相手は芹沢本人だったかも知れない。いつの間にか碁好きの金が座り込み観戦している。それだけならよかったが、つい熱中しすぎて盤側で口を出す。
それが二度三度となったとき、渡辺がキッと目をむいて言った。「金さん、黙っててくれよ」。金は、そのときはビックリした顔で口をつぐんだが、終盤のつば競り合いを見ていて、またたまらなくなって何か言った。すると渡辺、こらえ切れずに大声で言い放ったという。「金さん、言ったことがわからねえのか!」
どぎまぎする金は渡辺の兄弟子であることは先に書いたはずだ。「コンチクショウ」と言われなかっただけ救われる。
このように将棋指しは昔から碁好きである。病がこうじて、こんなおかしなふるまいともなるのだが―。
(以下略)
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昨日の記事でも書いたが、将棋においては感情を表に出すことなく無類の冷静さを誇る棋士たちが、囲碁の勝負では勝負師の本能のおもむくままに行動をしている。
どちらが本当の姿かと言えば、どちらも本当の姿なのだろう。
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渡辺東一名誉九段は1905年生まれで、二上達也九段、北村昌男九段、佐藤大五郎九段、勝浦修九段の師匠。1948年から1953年まで日本将棋連盟会長を務めており、羽生善治三冠と森内俊之九段の大師匠(師匠の師匠)ということになる。
高柳敏夫名誉九段は1920年生まれで、中原誠十六世名人、芹沢博文九段、田中寅彦九段、島朗九段、安恵照剛八段、宮田利男八段、伊藤果八段、大島映二七段、達正光七段、村中秀史六段、蛸島彰子女流五段、宇治正子女流三段、清水市代女流六段、船戸陽子女流二段、早水千紗女流三段の師匠。
金易二郎名誉九段は1890年生まれで、1934年から1936年まで日本将棋連盟会長を務めている。
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金易二郎名誉九段と渡辺東一名誉九段は15歳違い、渡辺東一名誉九段と高柳敏夫名誉九段も15歳違い。
二つの出来事は、15歳年下の側が燃え上がったことが共通点。
お互いが親しいということもあって遠慮なく思いを伝えることができたのだろう。
勝負師は何歳になっても負けず嫌いだ。