木村義雄十四世名人「御趣旨は誠に有難いが・・・だが、木村の将棋が他人にわかりますかい」

将棋世界1982年7月号、大修館書店の山本茂男さんの「茅ヶ崎だより ―最近の木村十四世名人―」より。

他人に分かりますかい!

 茅ヶ崎は東海道線を下りで一時間。夏は海水浴客でにぎわうところである。駅を左手に降り、タクシーに乗って「木村名人の家」と告げれば、まちがいなく出口町のお宅の前までつれていってくれる。

 白い塀の門が開かれていて、庭を通ると季節の花木が美しい。松林が奥に見える広い庭である。「やあ、もっさん」、名人は山本の名をこんな風に呼ばれる。

「この松林はいい松で、昔はショーロが出ました」不勉強でまことに申し訳ないことだが、ショーロというものを知らない。「丸いきのこみたいなものです」と”松露”を教えていただいた。「松はこれでずいぶん手がかかるものです」ともつけ加えられた。

 名人はおだやかで、話し好きな人である。

「温厚な方ですね」と、ご子息の木村義徳八段に感想を述べると、「あなたは昔の父を知らないから」と、笑っておられた。当方、棋書の編集は初めてで、将棋界のことは何も知らない駆け出しである。

 そう言えば一度、怖い目に会った。昭和52年の初夏「木村名人実戦集」を全三巻として出版する計画をたずさえてうかがったときのことである。棋書研究科の越智信義氏に同道を願って、茅ヶ崎のご自宅へ伺候した。

 当初の考えは、既に発表された新聞や雑誌の解説によって木村将棋を集成してみようというものであった。菅谷北斗星氏、金子金五郎氏の観戦記、それに名人御自身の筆になる自戦記もある。あれこれ集めれば、150局にはなるだろう。脳血栓という病の予後のことであり、書き下ろしの解説など思いもよらないことであった。

 ところが、この話をじっと聴いておられた名人、「御趣旨は誠に有難いが」と、ここでいったん言葉を切り、続けて「だが、木村の将棋が他人にわかりますかい」と言うと、口を一の字に結び左端をきっと引きしめて、はったと両名を見すえたのである。越智さんも私も一瞬ことばを失って、ははと平伏した。この恐ろしさは、後々まで二人の間の語り草となっている。

 瓢箪から駒がでたような具合だったが、結局、名人の御希望ということで、全巻書き下ろし自戦記という空前の企画がここに成立することになった。

「今はほら、録音器っていう便利なものがある。あれでやりましょう」

 これも名人の提案である。数度の打ち合わせで内容が定まり、巻数が最初の三巻から五巻乃至七巻、最終的には八巻というように増えてきた。大修館書店としては、前の『将棋名人戦全集』に続く大出版である。

 録音を速記にとると、名人がその原稿に朱書を入れる。校正で加筆もする。気がるに、「やりましょう」とは言われたが、一体、健康がもつだろうか。関係者がもっとも恐れたのはこのことである。もしものことがあっては、とりかえしがつかない。しかし、名人がやると言っている以上、こちらもできる所までやってみようと性根がすわった。

 越智さんが、自宅の資料だけでは足りず国会図書館に通いずめで棋譜をさがしてくる。名人が選局して、一局一局並べなおす。棋譜の間違いがよくあるからである。恐らく誤植か誤記なのであろう。そして、解説しやすいように、これも名人が一局を数枚の局面に割る。割った譜を、途中図、第一図、第二図、というように作図するのだが、「私がやりましょうか」と申し出たところ、「いえ、これは義徳にやらせます」と、きっぱりおっしゃった。

 御子息の義徳先生(当時B2の七段であった)に、譜面の浄書と全巻の校正をさせるというのである。失礼ながら、高段者のやる仕事ではないと思った。しかし、これを義徳先生は、忠実に、正確にやってのけられた。そして御存知のように、その間、B1、A級八段と一気に駆けのぼったのである。名人は、義徳七段に何が不足しているのかを知っておられたのであった。

義徳八段の霊魂論

 木村義徳八段といえば、大学院を出られたインテリ棋士として知られている。本誌の連載「嵐山だより」でも麗筆をふるっておられるように、相当の理論家である。といって、決して気むつかし屋でなく、名人に似て話ずきの陽気な人である。

 一局教えていただいたことがあるが、いきなり「平手でいきましょう」と言われて、びっくりした。(当方、初段ちょぼちょぼ。勿論アマチュア)こんなに誰とでも平手で指す人めずらしいんじゃないか。夜の新宿、天狗酒場でのことである。(誰ですか、どっちが勝ったかなどと言う人は)

 あるとき二人、京都は四条河原町の小料理屋で盃を重ねていた。あれこれ話しているうちに義徳先生が、”死後の世界”なんてことを言いはじめた。理論家は行きつくところ、こういう超自然に関心がおもむくものとみえる。フグの季節だったから、夏の夜話というのでもないが、ひとしきり、”霊の再生”とか”霊魂の質量”ということが話題になった。そのうち義徳先生、いたずらっぽい目をして、近頃、奨励会の人たちの間でこんなことが言われています、と話してくれたのは―

 同じような才能をもった棋士に、なぜ強いのと弱いのができるのか。その解答は、強い人は前世でも棋士をやっていた人。すでにそこで何段かになるまで修行をつんだ人。一方、いくら努力しても上がらない人は、今の世が初めての棋道修行の人。中原名人なんか、もうこの世とあの世を何回も行ったり来たりしているんだから、かないっこない……。

 この話を、よせばいいのに、茅ヶ崎の木村十四世名人にしてしまった。先日、義徳先生に面白い話をうかがいましたって。名人は、しばし憮然としておられたが、「義徳のやつ、まだそんなことを言ってやがる」と、一言。私は話のつぎ穂に困ってしまった。

 木村名人は心の優しい人である。第一回配本にむけて原稿整理に大わらわのころ、私事であるが、病院で父を亡くした。十五年にわたる長わずらいの果であった。その折、仕事の様子を知りたいからと茅ヶ崎へ呼ばれ、いろいろと御親切にしていただいた。

「やあもっさん。あなたのお父さんは、さぞ御立派な人だったでしょう」

 こう慰められて、私は「はい」と答えたが、東北の炭鉱夫で凡そを終えてしまった父をおもって、胸がいたんだ。名人が父思いであられたのは有名な話だと、後に人から教えられた。

休まず1500字

 さて、ついに『名人木村義雄実戦集』全八巻、総ページ数四千三百余に及ぶ自戦記、故人著作集は完結した。この実戦集につぎこまれた、名人のエネルギーは莫大なものである。

 興がのると、徹夜をして翌朝まで棋譜を並べておられることもあったそうである。「この仕事には命を賭けています」と言われるのだが、本当に命と引きかえにされては一大事である。何とか徹夜だけは止めていただくよう奥様にも申し上げるのだが、これは、昔から言いだしたらきく人ではないのだそうである。

「病は気からです。私はこの仕事のおかげで、毎日が楽しくてしかたがない」と名人はおっしゃる。仕事で張りが出たせいか、食欲も増し血色もよくなりましたと奥様も不思議がられるほどである。この年で八巻もの著作を行う人は、めったにあるものではない。

 超人とはこういう人のことであろう。将棋が強いだけではない。この人は、文壇、画壇、名筆、名優、角界、銀幕界、財界、政界、あらゆることがらに通じているのである。中でもおどろくべきは、その膨大な読書量である。三国志、水滸伝は何種類よんだかわからない。「三軍の将」の意義が版によって異なることを指摘される。水滸伝の登場人物を、空で全部列挙する。それを出身県別に分類することもできる。神田山陽先生もびっくりにちがいない。

 漢文が得意で、若い頃は春本まで漁って読んだそうである。聖書も読んだ。ドストエフスキーも読んだ。ロシアものはどうも陰惨でいけねえ、と感想をもらされる。暇ができたら読もうと思って、和書、漢籍をずいぶんと買いためていたのだが、全部戦災で焼いてしまいました、と残念そうに語られた。

 若いうちに頭をつかえ。いろんなことをやってみることだ。頭はちょっとやそっとでこわれるものではない。使えば使うほどよくなるもの、だそうである。六段時代から二十年間、ずっと報知新聞の観戦記を担当しておられた。今のように新聞に休日はない。買っても負けても、毎日1500字(原稿用紙約四枚)の記事を書く。さすがに、負けた朝の出稿はつらかったそうである。しかし、一日も休まなかった。

 スポーツ選手は、毎日のロードワークで基礎体力をつける。名人は自ら一日1500字を課して、あの強靭な精神力を養ったのではあるまいか。

 先日、また茅ヶ崎へうかがった。最終巻の校正刷を前にして、いかにもうれしそうにしておられた。

「おかげ様で将棋界も繁栄を極めている。若い人にもどんどん強いのがでてきて、楽しみなことです」

 近頃、相撲で良いのが千代の富士。まれに見る逸材と評された。将棋では加藤(一)十段がよい。昔の将棋と違ってきている。それと谷川八段が強い。加藤の若いころより強い。できるなら盤上で対面してみたい、とこの七十七翁は熱っぽく語るのである。

 かたわらには、常の如く奥様がにこにこと笑っておられる。老後がこのように素晴らしいものと知る人は少ないだろう。

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木村義雄十四世名人は、将棋の普及や棋士の社会的地位向上にも大きな役割を果たしてきた。

私の子供時代、将棋を知らない私の母でさえ「将棋には木村名人と大山名人という偉い人がいる」と教えてくれるほど、木村義雄十四世名人の名前は一般の人に知れ渡っていた。

「木村の将棋が他人にわかりますかい」

何とも深い言葉で、十四世名人としての矜持を感じさせる。

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表現や意味合いは異なるものの、佐藤康光王将(当時)、山田道美九段も、自分の言葉で自分の将棋を表現したい旨を書いている。

佐藤康光王将(当時)「我が将棋感覚は可笑しいのか?」(その2)

佐藤康光九段と山田道美九段

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木村義雄十四世名人が築き上げてきた将棋は、相掛かり、角換わり腰掛銀、後手ゴキゲン中飛車の形に似た横歩取りなど、戦前から昭和20年代まで流行った戦型。

これらは昭和30年代~昭和40年代は斜陽戦法と呼ばれ、完全に過去のものとなっていたが、現在は相掛かり、角換わり腰掛銀、横歩取りはメジャーな戦法となっている。

流行戦法の変遷は本当に面白いものだと思う。

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木村義雄十四世名人が亡くなる前年の歴史的にも非常に貴重な対談。

「巨匠が語る将棋界今昔 木村義雄 VS 倉島竹二郎」(1)

「巨匠が語る将棋界今昔 木村義雄 VS 倉島竹二郎」(2)

「巨匠が語る将棋界今昔 木村義雄 VS 倉島竹二郎」(3)

「巨匠が語る将棋界今昔 木村義雄 VS 倉島竹二郎」(最終回)

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