将棋に憑かれた男

西本馨七段が亡くなられた。享年88歳。

棋士の西本馨さん死去 視力に障害負いながら活躍

西本馨七段は視力に障害を負いながら1948年にプロ棋士になり、1973年引退。引退後は舞鶴で将棋道場を開いていた。将棋ペンクラブ会報にも、昔の思い出話を寄稿されていたことがある。

盲目であったため、数奇な将棋人生を歩むことになる。

湯川博士さんの1986年の著書、なぜか将棋人生の「将棋に憑かれた男」より。

 日本海に面した港町西舞鶴に小さな将棋道場がある。経営しているのは盲目の引退棋士西本馨五段。特に将棋の才能があったわけではなく、ただただ好きで無理矢理入門。四段を十年務めてついに予備リーグに降級。その後も奨励会を十五年頑張ったという人だ。

 舞鶴は人口九万の小さな港町だが、戦後大陸からの引き揚げ船の町として有名になった。

(中略)

 道場はアーケードを入って十メートルくらいの所にある。看板には、「日本将棋連盟舞鶴支部」とある。窓越しにのぞくと、十畳くらいの道場で、先生がお客さんと指している。他に客同士が一組。玄関から入って声をかけると、

「あら、まあ。今の汽車で来はりましたン。ようまあ雨ン中を。今ちょっとやっとりますので、適当に遊んどって下さい」

 壁には料金表がはってあって、<一日五百円。月ぎめ三千円>

―先生のとこは安いですね。

「それでも田舎やから、よう来んのや。ところでずい分久しぶりですなあ」

 ここへ来るのは五年ぶりくらいなので、ザッと現在に至る私の経過と今の仕事を話す。

「へえ、観戦記を書いてるんですか。『将棋ジャーナル』いうんは名前は聞いとるけど、見たことないヮ。あの八ヶ岳やらでプロを呼んで指したとか聞いとりますけどなあ。なんやらいうアマの人が勝ったとか。私も、二面指し、三面指しまで行けるけど、ちょっと相手が強かったりするとアカンわ」

―三面はすごいですねェ。デパートの催し物やお好み企画でやったらいいのに。

「もう、引退した者には声かけてくれんヮ。それよりもすぐ終わるさかい、奥で待ってて下さいな」

 ここのお客さんはほとんど商店街のおとうさん達で、夕食には皆家に戻っていなくなるのだ。

「やあ終わりましたがな。さあさ、ビール飲んで下さい。たいしたものないけど」

―道場のほうはまあまあですか。

「そやなボチボチやなあ。日に十人いうとこかなあ。今でも家内は洗濯屋に働き行っとりますヮ。それでも子供が二人とも学校出ましたし、昔思うたらおかげさんでまあまあですヮ」

―奥さんもお元気そうですね。

「この人、将棋しかありませんからね。そやから道場が楽しみなんですヮ」

「ご承知でしょうけど私はじめ木見先生んとこ行った時、アマチュアの初段もなくてネェ。今考えるとアホみたいな話やけど、なにしろ四枚落ちでも勝てん、しまいに歩三兵で負かされましてん。それでもどうしても将棋やりとうて無理矢理入れてもらいましたンですわ。ホンマは野球やりたかったんやけど、浪商入ったとたん、眼ェに打球受けまして、視力0.1以下になりましたんで、それで好きな将棋やろうと思いましてネ」

「この人ンちが軍需工場やってまして、お父さんがいろんな物、木見先生のとこに持って行ったそうです。それもあったんでしょう」

「まあ、プロちゅうより、お客さんみたいなもんでしたな」

―その頃はどんなふうでした。

「灘さんが私より下やったけど、エライ強い子でネ。態度も堂々しとって、驚きました。それから升田さんが一時兵隊から帰って来まして、そこへ花村さんが挑戦してきまして。雰囲気がどうも違うんですヮ。どっちも相当懸賞しとったんでしょうな。(中略)」

―四段になったのは戦後ですよね。

「うれしかったなあ。それでその年に三勝一敗で南口さんと同率決戦やったんですが負けて、上がれんかった。勝った南口さんは二階級特進で、ワシはその後ずっとC2やった。あれ惜しかったなあ。それから山田道美君が入ってきて、あの人は昇級決定。こっちは勝ち越しがかかっている。それで私の勝ちになって、もうナベに入っている将棋や。それを、粘りに粘るんや。もうエエかげんに投げろ、と思っとるのに頑張るんや。結局大逆転で負けたのがあったけど、ああいう人は関係ない将棋でも頑張るんやなあと思いましたネ」

―先生が完全に目が見えなくなったというのは、いつごろでしたか。

「うーん、そうやなあ。三十三年にボロ負けしましてン。順位戦十四連敗ちゅうやつね。あれでワシちょっとノイローゼ気味になりましてな、同じ年に父親も亡くなりまして、もう二重も三重もショックで、あれからカクン悪うなって、白い杖突くようになったんは、三十七年や。三十四年からは予備リーグ(三段)に落ちまして、これはあんたわからんやろうけど、辛かったワ。なにが辛いゆうて、お金が一銭も入らんのや。今と違うて、順位戦だけやのうて新聞棋戦もすべてダメなんや。それでも三段リーグの時は、交通費が出とったけど、そのあと二段に落ちてからは完全に手弁当や。対局のたびに、舞鶴から大阪まで手弁当で行きよるんやからな。アホなこっちゃ。ホンマいうて」

―それじゃあ奥さんもたいへん・・・

「それや。家内はあんた、朝は市場、昼は今も行っとる洗濯屋、夜は食堂の皿洗い。よう働いた。普通怒りますよホンマ。それ家内が将棋やりなさい言うてくれたから、ワシも若い人の中に入って指せたんですヮ。でも板バサミで苦しかったヮ。プロや言うても女房子供に苦労かけてや、オヤジは一銭にもならんどころか、赤字の将棋指してな」

「でも店(乾物屋)つぶして道場を始めましたのは、この人に将棋続けさせたかったんですよ」

「一度連盟で本間爽悦先生に言われました。西本君迷うとるなあ、背中に書いてあるヮ、とね」

―見えないハンデっていうのはどういう所に来るもんですか。

「直接勘違い、いうのもありましたけど、一番困ったんはつきそいの問題やね。私の家内は働いてましたし子供もちっさいころでしたし。それで近所の人やら親戚のもの頼みましてね。盤側で棋譜読んでもらうんですヮ。これがいろいろ失敗談もありましてネ。今だから笑い話ですけど、そのころは深刻やった。たとえば近所の人に行ってもろた時なんか、私が指すとそのおっちゃん、『西本はん、そらええ手でんなあ』と大声で言うんですヮ。縁台やないちゅうんや。もう他の対局者ブァーと吹きまんがなあ。北畠の二階中大笑いや」

 西本センセだんだん調子が出てきて、一人でビールをガボガボ注いで話を続ける。

「そいから親戚の子供連れてった時なんか、将棋よう知らん子でな。いちいちおっちゃんこれ7六やなって聞きよるんや。ワシもわからんがな。

 それで私も盤面以外で負けるようになってだんだんイライラしよる。つきそいの人が遅れて来る時なんか、相手は奉仕の人やから怒れんし、時間はどんどんたって三倍引かれるワで、ジリジリしたもんや。目ェが悪い上に時間でハンデつけられるんやから、そら身を刻まれる思いやなあ。

 でも今考えたらワシもおかしかったんやなあ、先に一手指して待っとればよかったんや。そやろ。もし後手でもやな、ちょっと一手目だけ聞いて、3四歩くらい指しておけば遅刻引かれんからな。当時はもう頭おかしくなってたんやろな」

―そうやって指してて、もういかんと思ったのは。

「いろいろありますけど、理事に『西本さん小さな盤を手元に置いてやりない。盤面さわらんと指せるやろ』それなら認めるいわれまして。ああ、こんなことまで人に言われんでも、自分で考えなイカン思いましたね。それからワシしかでけん反則ゆうのやった時かな」

 遠い嫌なことを想い出そうとしている表情。顔を上げてジッと天井をにらんでいるようだ。そしてやおらビールをガブガブと飲むや語り始めた。

「二段に落ちてからやけど、ワシが4六桂言うたんや。そしたらつきそいのもんがなかなか指してくれん。それで急に『先生、歩がありまっせ』と言うんや。なんと、盤駒の上に我駒を打ってンのや。これにはワシもガッカリしました。こら目ェも見えんけど頭も相当いたんできとるヮ。

 それからこれはつきそいの人が将棋好きな人で、秒読みになってんな。そいで向こうの手番やのに、なかなか指さん。七、八、九、十と読んだとたん、相手のたしかKさんやったかな。『先生時間切れましたからボクの勝ちやな』言うんですヮ。驚いて確かめたら、なんやウチのつきそいさん、夢中になって盤面読んでるうち、向こうの指し手言うの忘れてたんや。これも負けや。もう将棋やないで」

―それでも辞める時は決心がいったでしょう。

「そやね。やめるゆうことはもう将棋指せんわけやからね。そらもう死ねちゅうようなもんや。辛い辛い。ワシから将棋取ってしもたら、なんにも残らん。それでも五十近いおっさんが、若い人の中に入っているのミットモナイ言われましてな。ワシ言うたんや。升田さんに休場認めて、ワシらみたいに一銭もかからんもん辞めさせるんか、ゆうて、それでも結局、今でも忘れませんヮ、四十七年十二月十三日に、声明出さされて。それでもワシ、あと一年せめてあと一年指さしてくれ言うて、それで翌年も指させてもろて・・・」

―ずい分頑張ったんですね。

「五十面下げて、プロが自分で足代払ろてやで、人頼んで、それでボロイ将棋指して、ヤイヤイ理事に言われて。それでも辞めんかったちゅうの、アホ思うやろけど、結局なんですなあ。あのプロ同士の対局の味いうのが格別なんですヮ。無念無想でな、もう将棋だけの世界やもんなあ。あの味だけを頼りに、白い杖突いて、トボトボ大阪まで通ったんやろな・・・」

―ところで今は降級なしですが、当時はけっこう落ちた人いるんでしょう。

「ま、だいたい辞めますヮな。若い人に混じって指すゆうのも恥ずかしいし、実際なかなか勝てんものや。そうそう。あんた、私がもっとも尊敬している棋士教えますヮ」

―誰ですか。

「橋本三治、北村文男、星田啓三さんや。この三人な、一度予備リーグに落ちて、また上がったんや」

―カムバックの場合は何か特別な規定があるんですか。

「そんなもんない。同じや。リーグで優勝して、東西決戦に勝たなイカンのや。橋本さんは確か高田丈資に勝ったんや」

 ここまでしゃべって、急に気持ちが昂ぶってきたのだろう。大きな声でつばきを飛ばしてしゃべる。

「あんた、大山さんがエライ、升田が強い言ってもやで、私が尊敬するんはこの三人や。あんたらわからへんやろけど、予備リーグに落ちるいうんは、収入ゼロや。物心両面ネ、ナ、ミ、タ、イ、テイのもんやないんやで(机をたたく)。今まで十万十五万もろうてたのがゼロやねん。この一年ちゅうのはホンマ涙が出るほど情けない、辛い。それを落ち込まんと頑張って若い人を負かしてはい上がるんやから、こらエライわ、尊敬するワ」

 柱時計がボーンと一時を告げる。

―今まで辛い話ばかり聞きましたけど、うれしかったことは。

「これは四十九年でしたか。第一回将棋大賞いうのに私の名前が出てるいうてお客さんが教えに来てくれたんですよ。私、そんな馬鹿なゆうたんです。そしたら特別賞に木村義雄名人といっしょに候補になっとるいうんでしょ。驚きましたよこれは。そやかて木村名人ゆうたら、あんた、初代名人からずうっと来て関根はんまで襲名や。実力名人の初めての人や。その大名人の木村はんとワシみたいなもんといっしょになるわけない、思ったんですが、ホンマだったんです。なんでも記者の方々が名前上げてくれはったそうですヮ。こん時は涙出るほどうれしかったヮ。賞ですか?そんなもん木村はんに決まってるわ。ワシはもう名前上がるだけで本望や。万年四段が天下の木村はんと名前並べてもろうたんやからな。こらもうあんた・・・」

 先生はよほどうれしかったのだろう。思い出して、本当に涙ぐんでいた。私もうれしくなって、冷たいビールを勝手に冷蔵庫から取り出した。奥さんは仕事があるので、とっくに二階に上がり、娘さんも二階。

 昔話でだんだん冴えてきた西本先生と、ビールでそろそろ頭が眠くなってきた私が、台所のテーブルで、おだを上げている。連盟に対する不満や、また反対に面白い話も沢山出た。私の反応がだんだん鈍くなってきたのが、わかったようで、そろそろ寝ようかとなった。

(以下略)

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「でも店(乾物屋)つぶして道場を始めましたのは、この人に将棋続けさせたかったんですよ」

の奥様の言葉は泣ける。

1997年の将棋ペンクラブ関西交流会、西本馨七段も出席されていた。

私がお会いしたのは、その一度だけだった。

合掌。