「しかし、形は変わっても、哀歓を感じさせる場面はまだ残っているのである」

将棋世界1999年9月号、河口俊彦六段(当時)の「新・対局日誌」より。

 将棋界の勝負には因縁がからむからおもしろく、それはどの棋士にもある。

 今期竜王戦で活躍している木下(浩)五段は、次に井上八段と対戦するが、この二人にも、ちょっとした因縁がある。

 井上八段はエリートコースを走っているが、C級2組時代に苦労した。多分3年か4年足止めを食らった。原因は木下五段にある。

 平成元年、井上四段はC級2組順位戦で勝ち進み、最後の一局で勝てば昇級となった。そのときの相手が木下四段だった。

 当時は私は「将棋マガジン」に対局日誌を連載していて、その最終戦も取材していた。ただ、井上対木下戦は関西で戦われたので有様は見ていないが、井上四段がまるっきり勝ちの将棋を負けた、とは聞いていた。あんまりひどいだまされ方をしたので、井上君が泣いてた、なんて話も耳にした記憶がある。

 そのころ、東京では、勝てば自力昇級の石川四段が田辺五段の頑張りにあって敗れた。そうして、候補の二人が消え、幸運をつかんだのは、佐藤康光四段だった。

 もし、このときの幸運がなかったら、今頃名人になっていたかどうか。

 と書きたいのだが、このとき昇らなくてもいずれ昇り、結局、今と同じ名人になっていただろう。現に井上君だって、ちゃんと八段になっている。同じことは先崎七段にも言えるだろう。20歳代の数年は、貴重な時間のように思えるが、長い生涯で見るとたいしたことがない。升田、大山だって、いちばん強いころ、戦争で将棋を指せなかった。それでも、生涯の実績は、ご存知の通りである。

 さて、この日は日本棋院で囲碁の観戦をし、市ヶ谷から千駄ヶ谷に移ったのは、午後9時をすぎていた。

 さっそく控え室のモニターテレビを見ると、郷田八段対丸山八段戦が終盤になっていて、丸山八段がやすやすと寄せ切った。そこだけを見るかぎり、丸山八段の楽勝だった。まったく強い。

(中略)

この後30手近く、佐藤紳哉四段は粘ったが逆転はならなかった。この2連敗はちょっと辛い。

 辛いといえば郷田八段も同じだろう。最近の目につく星だけを見ても、順位戦、棋聖戦五番勝負、そしてこの日の竜王戦と、大きなところを落としている。日程がつまっているところも辛い。感想戦もそこそこにし、控え室に寄らずに帰った。勝った方の丸山八段は控え室で仲間に囲まれ、中座飛車の変化を調べている。笑顔が絶えないのはいうまでもない。

 勝負の明暗を感じさせる場面は、年々すくなくなっている。昔なら、負けた方が残って周りの人達に当たり散らし、勝った者はさっさと一杯やりに帰ったのだった。

 しかし、形は変わっても、哀歓を感じさせる場面はまだ残っているのである。

(以下略)

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「もし、このときの幸運がなかったら、今頃名人になっていたかどうか。
と書きたいのだが、このとき昇らなくてもいずれ昇り、結局、今と同じ名人になっていただろう。現に井上君だって、ちゃんと八段になっている。同じことは先崎七段にも言えるだろう。20歳代の数年は、貴重な時間のように思えるが、長い生涯で見るとたいしたことがない。升田、大山だって、いちばん強いころ、戦争で将棋を指せなかった。それでも、生涯の実績は、ご存知の通りである」

は、本当にそうだと思う。

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勝負の明暗を感じさせる場面、見ている方も辛い。

しかし、それはその場限りのこと。

やはり、長いタイムスパンで見れば、そうそう悪いことは続かないと思いたい。